「残念だけど、辞めてもらうことになった」
 2006年11月、前田真宏は2年間所属した四国アイランドリーグ・愛媛マンダリンパイレーツから解雇を言い渡された。入団1年目の05年は先発として20試合に登板したが、06年は(先発は)わずか6試合。成績だけを見れば、解雇も考えられなくはなかった。だが、前田自身はピッチャーとして自分の成長を感じていた。それだけに、納得することはできなかった。解雇の理由を聞くと「人間性がまだ甘い」と言われた。その言葉を聞いた瞬間、前田は愛媛への未練を断った。

「1年目は高山郁夫コーチ(現ソフトバンクコーチ)が丁寧に指導してくれました。高山コーチは選手個人個人のいい部分を伸ばしてくれる。僕も高山コーチのアドバイスでどんどん自分がよくなっていくのがわかりました。
 でも2年目、高山コーチがソフトバンクに行かれたために、ピッチングコーチがかわったんです。新しいコーチにはいきなり『お前、下(アンダースロー)でいけ』と言われました。最初は僕も心機一転、下で頑張ろうと思って一生懸命に練習しました。でも、やっぱり納得できなかった。だから、1カ月後にはコーチの反対を押し切って元のフォームに戻したんです。そしたら、後半は結構調子が良かった。それなのに……」

 地元が大好きな前田は、どんなかたちでも愛媛で野球を続けたかった。だが、兄の浩史の気持ちは違っていた。
「僕は、真宏がマンダリンパイレーツのコーチと合っていないように見えていました。だったら、もう愛媛を出て、新しくできる北信越の独立リーグに参加したらいいのに、と考えていたんです。真宏が愛媛から解雇を言い渡されたと聞いたとき、弟にとってはいいチャンスだと思いました」

 マンダリンパイレーツから解雇された前田に落ち込んでいる暇はなかった。07年からスタートする北信越BCリーグの合同トライアウト1次テストの最終締め切りが3日後に迫っていたのだ。前田はすぐに気持ちを切り換え、BCリーグのトライアウトに向けて準備を始めた。

 12月9日、近畿大学野球部生駒総合グラウンドで1次テストが行なわれ、さらに同月19日にはインボイスSEIBUドーム(現グッドウィルドーム)で2次テストが行なわれた。後日発表された合格者100人の中に「前田真宏」の名前があった。
 それから約1カ月後の07年1月25日、ドラフト会議の会場となった新高輪プリンスホテルには100人以上の報道陣が詰めかけた。前田にとって、これほど多くの報道陣を前にしたのは生まれて初めてであった。
「前田真宏」
 村山哲二代表に呼ばれ、前田はステージに上がった。だが、自分がどのチームに指名されたのか全くわからなかった。ステージ上で辺りを見回すと、新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ(BC)の後藤孝志監督が立っているのが見えた。

「僕の家族は全員巨人ファン。僕自身、昔から後藤監督のプレーは大好きだったので、第一志望は新潟だったんです。その新潟に指名されたとわかったとき、本当に嬉しかったです」

「監督から信頼されるようなピッチャーになるぞ」――心の中で新境地での活躍を誓いながら、前田は後藤監督とガッチリと握手をかわした。
 そして3月、前田は初めて新潟の地に足を踏み入れ、3年目のプロ生活をスタートさせた。

 背番号に宿る祖父への思い

 大学時代、愛媛時代と、前田は背番号「21」をつけてきた。大学時代はピッチャーなら誰もが憧れるエースナンバー「18」を薦められたこともあったが、それを断ってまで「21」にこだわった。いったい、その理由は何なのだろうか。

「大学時代、本当は18番をつけたかったんです。でも、じいちゃんに相談したら『真宏には、18や19よりも21がいい』と。じいちゃんは字画での姓名判断や数字などで開運を占ったりするのが大好きで、しかもそれが結構当たるんです。だから、じいちゃんに言われたとおり、21番にしました」
 大学時代、大学日本選手権で神宮のマウンドに立ったり、2つの独立リーグに合格したりと、確かに背番号21は前田に幸運をもたらしているようだ。

 祖父の立石富長は大の野球好きだった。特に巨人ファンでナイター中継は必ず観るほどの熱狂ぶりだった。幼少の頃、前田は祖父の家に遊びに行っては、一緒に野球を観ていたという。
「じいちゃんは、僕がプロ野球選手になることをずっと心待ちにしていました。だから、四国アイランドリーグに合格した時は、泣いて喜んでくれたんです」

 だが、前田が愛媛に入団した年、富長は体の調子を悪くして入院を余儀なくされた。一度はプロ野球選手としてプレーしている孫の姿を見に球場に行きたいと願っていたが、その思いは叶えられないまま、06年1月、天国へと旅立っていった。

 祖父が亡くなる前日、偶然にも前田は兄、両親とともに病院に見舞いに行っている。その日はチームのイベントが祖父の入院していた病院の近くであったため、帰りに病院に寄ることにしたのだ。
 その時、ふと前田は思った。「オレ、まだ一度もじいちゃんにユニホーム姿見てもらってないなぁ。よし、このままユニホームを着たまま病院に行こう」

「目立つから、やめたほうがいいのでは?」という両親や兄の反対も押し切って、前田はユニホームを着たまま病院へと向かった。初めて見る孫のユニホーム姿に、富長はただただ「うん、うん」とうなづきながら嬉しそうに見ていた。目からは、涙がとめどなく流れていた。「ユニホームを着てきて、本当によかった……」。前田は心からそう思った。
 そして富長が永眠についたのは、翌朝のことだった。

「病院を出る時、僕が『また来るね』と言うと、じいちゃんは『バイバイ』って言ったんです。いつもなら『おう、また来いよ』って言うのに、その時は涙を浮かべながら『野球、頑張れよ。バイバイ』って。じいちゃんは、これが永遠の別れだということをわかっていたのかもしれません。それだけにあの時、ユニホーム姿を見せられて良かったなと思っています」

 前田は、新潟でも迷わず背番号「21」を希望した。ユニホームを着るたびに、祖父を背中に感じ、気合いが入る。マウンドではいつも「じいちゃん、頑張るよ」とつぶやく。すると昔、祖父がよく言ってくれていた言葉が聞こえてくる。「真宏ならできるけん、大丈夫」――。

 前田真宏、23歳。「いつかNPBのユニホームを着て、じいちゃんのお墓参りに行きたい」。そんな思いを胸に、今日もグラウンドで汗を流している。


前田真宏(まえだ・まさひろ)プロフィール
1984年6月13日、愛媛県西予市(旧三瓶町)出身。小学4年からソフトボールを始め、エースで4番として活躍。中学では軟式野球部に所属し、全国中学校総合体育大会愛媛県大会ではエースとしてチームをベスト4進出に導いた。県立三瓶高校卒業後、徳山大学に進学。2年時にはレギュラーを獲得するも、中退して四国アイランドリーグ・愛媛マンダリンパイレーツに入団。2007年より北信越BCリーグ・新潟アルビレックスBCに所属。176センチ、70キロ。右投右打。



(斎藤寿子)
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