☆再掲☆宮崎早織(JX-ENEOSサンフラワーズ/愛媛・聖カタリナ女子高校出身)第2回「バスケ少女の源流」
宮崎早織にとって、バスケットボールは当たり前のように近くにあったものだった。5歳上の姉・優子がミニバスのチームに入っていたこともあり、物心がつく頃からバスケに見て、触れる機会は幾度もあった。「憧れで、目標だった」という姉・優子の存在。宮崎がバスケを始めるのは、いわば必然だった。
(2016年3月の原稿を再掲載しています。※表記は当時のもの)
宮崎は運動神経抜群の女の子だった。母・寿美香によれば、運動会ではいつも一等賞。“男勝り”な俊足で助っ人を頼まれることもあった。
「リレーの子が1人出られないからと、男の子の代わりで出たこともありました。ただ、それはダメだとルール違反で、失格になりました。もし走れていたら勝っていたと思います」と、母・寿美香は当時を懐かしむ。また、そういうエピソードには事欠かなかったという。
小学3年時に地元・埼玉県のミニバスチーム「南古谷アクロス」に入団する。かつては姉も所属していたチームである。決して強豪チームではなかったが、宮崎にとっては基礎を教わるだけでも楽しかった。
「ミニバスの時は基礎を教えてくれたコーチだったので、すごく面白かったですね。1対1など、人に勝つとか負けることを教えてくれました。それがとても楽しかったですし、そこで負けず嫌いになりましたね」
彼女のスピードを生かした1on1は、ここで培われたのかもしれない。バスケの魅力に夢中になった宮崎は、来る日も来る日もバスケに明け暮れた。
憧れであり、目標としていた姉・優子のプレーを真似ていた宮崎。姉妹を見守っていた母・寿美香の目からも、2人が重なる時があったという。
「似ていますね。もうディフェンスのやり方や走る姿はすごくよく似ている。背格好が近いこともあると思います。ただ1つ違うのが、優子の場合は、周りに間宮(佑圭)、篠原(恵)、山本(千夏)という代表クラスの中でやっていたので、自分の役割を“このチームではディフェンスで頑張るしかない”と考えてプレーしていました。一方、早織の方は“自分がどうしても点数が欲しい”という感じでしたね。そこが違うところかなと思います」
成長を信じ、親元を離れる決意
南古谷小学校を卒業した宮崎は、埼玉県内の公立中学へと進む。姉・優子は東京の名門成徳中・高に入っていたが、与野東中を選んだ。ここで姉・優子とは別の道を歩むこととなる。「遊んでばかりで、バスケしかやっていなかった」と母・寿美香が証言するほど、宮崎はバスケ少女だった。進学先にはバスケができることが必須条件だった。与野東中へは電車通学ではあったが、県内でもバスケの上位校である。当然、部活動には熱心で、顧問の先生からも誘いを受けていた。宮崎は迷うことはなかった。
与野東中のバスケ部は練習量も多く、宮崎はそこで基礎体力を身に付けていった。毎日、部活動からヘトヘトになって家に帰る。「食べているか寝ているかのどちらかでしたね」と母・寿美香。宮崎は疲れても充実した日々を送っていた。与野東中では全国大会へ進むことはなかったが、彼女は埼玉県選抜に選ばれるなど着実にレベルアップをしていった。
高校からは親元を離れ、愛媛県の聖カタリナ女子高校に入学する。姉・優子が成徳高校に通っていたこともあり、全国高等学校選抜優勝大会(ウィンターカップ)など全国大会を観戦する機会があった。そこで成徳よりもコートで躍動するカタリナの選手たちのプレーが目に留まった。
「プレーを見ていても面白くて、みんなで戦っているというのを感じました」。宮崎はカタリナの走るバスケに魅せられた。そのスタイルがスピードのある自分に合っているとも思った。さらにカタリナには姉・優子の成徳中時代の1学年下の後輩がおり、見違えるほどに成長した姿を見せつけられた。宮崎が「自分もカタリナに行けば、もっとうまくなれる」と可能性を感じたとしても不思議ではない。
当時のカタリナはU-18日本代表のコーチを務める一色建志監督がいた。「一色先生に教わりたい」。その想いを胸に、宮崎は埼玉から愛媛へと向かう決意をしたのだった――。
(第3回につづく)
1995年8月27日、埼玉県生まれ。小学3年でバスケットボールを始める。南古谷アクロス、与野東中を経て、愛媛県の聖カタリナ女子高に進学した。聖カタリナでは1年から試合に出場し、2年時には主力として全国高校総合体育大会(インターハイ)、全国高等学校選抜優勝大会(ウィンターカップ)での準優勝に貢献した。3年時にはインターハイとウィンターカップで3位に入った。高校卒業後はJX-ENEOSサンフラワーズに入団。1年目から出場機会に恵まれWリーグ、全日本総合選手権大会の2冠を経験した。身長166センチ。背番号は32。
(文・写真/杉浦泰介)