球界再編問題を奇貨として2005年にスタートしたプロ野球セ・パ交流戦は、今年で18回目を迎えた。制度設計の際、参考にしたのが1997年に始まったア・リーグとナ・リーグによるMLBインターリーグ。こちらは94年から95年にかけて続いた232日間のストライキがきっかけとなって誕生した。要は失地回復のために打ち出した新機軸だった。日本もそれに倣った。

 

 そもそも、なぜ1リーグ制でスタートしたプロ野球は、戦後間もない50年からセ・リーグとパ・リーグによる2リーグ制になったのか。「分立」か「分裂」かは、今も見解が分かれている。

 

 2リーグ制を提唱したのは、日本野球連盟名誉総裁の正力松太郎である。49年4月のことだ。正力案は既存の8球団に新設の4球団を加えて12球団に拡張した上で、これを2つに分けるというものだった。

 

 その見取図を書いたのが、当時GHQの経済科学局に勤務していた日系米国人のキャピー原田(本名・恒男)という人物。正力に概要を伝えると、49年1月、正力本人に鈴木龍二(日本野球連盟会長)、永田雅一(大映専務)を加えた会合に呼び出され<原田君が提案してくれた二リーグ制の導入を確認したい。さらに大リーグのワールドシリーズのような日本一を決めるプロ野球選手権を実施するべきだと思う>(市岡弘成・福永あみ著『プロ野球を救った男 キャピー原田』ソフトバンククリエイティブ)と、いきなり本丸に切り込んできたという。<計画実現のため、正力は自ら読売新聞社のライバルである毎日新聞社にプロ野球への参戦を持ちかける。これに対して毎日の本田(親男)社長は、新球団の創設を約束し、すぐさまその準備に取り掛かった>(同前)

 

 正力の2リーグ制を後押ししたのは、他でもないGHQだった。この統治組織は軍事面を担当する参謀部と、日本の内政を司る幕僚部に分かれていた。原田が勤務する経済科学局は幕僚部に属し、日本国内での米国文化や娯楽の浸透に力を入れていた。その代表格が野球と映画だった。よく言えば日本人の大衆化政策、悪く言えば愚民化政策である。

 

 ノンフィクション作家の鈴木明は、原田の上司にあたる経済科学局長のウィリアム・マーカットが2リーグ制移行の中心人物だったと見ており、その根拠として「アメリカは、二大政党、二大リーグ、バランスのとれた自由競争で、今日の繁栄を築いた」(鈴木明著『プロ野球を変えた男たち』新潮社)とのコメントを引いている。事の是非はともかく2リーグ制はGHQ、ひいては米国の利益にかなうものだったのだ。

 

 参考までに述べれば、50年の第1回日本シリーズの正式名称は「日本ワールド・シリーズ」。いかにも米国風だ。始球式で捕手を務めたのが野球経験のあるマーカット。誰あろう2リーグ制導入の立案者その人だった。

 

<この原稿は23年5月31日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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