プロレスアナウンサー時代、数々の名文句を生み出した古舘伊知郎。その中のひとつに“ひとり民族大移動”というものがある。身長223センチ、体重236キロの“大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアントが花道をのっしのっしと歩きながらリングに向かう姿を言い表したものだが、これには思わず膝を打った。

 

 では、もし身長209センチの“東洋の巨人”ジャイアント馬場がプロ野球の世界に残り、その時代に古舘アナがいたら“ひとりグリーンモンスター”と呼んでいたのではないか。身長200センチの巨人・秋広優人の外野守備を見るにつけ、そんな思いにとらわれる。妄想と笑わずにお付き合い願いたい。

 

 5月3日、東京ドームで東京ヤクルト・村上宗隆が放った左中間への大飛球、5月24日、同じく東京ドームで横浜DeNA・宮﨑敏郎が押し込むように打ち上げたライトフェンス際への打球は、秋広でなければ頭を越されていただろう。

 

 さて馬場だ。彼が巨人から戦力外通告を受けたのは入団5年目の1959年オフ。入団3年目の57年には、わずか3試合とはいえ1軍の試合に登板し、7回を投げて自責点1。防御率1・29という成績を残している。本人いわく「さぁ、これから」という時に、自身を買っていた投手コーチの藤本英雄が退団し、それに伴い不遇をかこつようになった。「いささか自信があっただけにガクッときた」と本人。

 

 しかし、捨てる神あれば拾う神あり。馬場入団時の投手コーチで、59年から大洋に転じていた谷口五郎の薦めもあり入団が内定する。監督は就任したばかりの三原脩。「凡から非凡を引き出す」を指導方針に掲げる知将は馬場の潜在能力にひそかに注目していたようだ。

 

 ところが練習生として参加していた明石のキャンプで、馬場は災厄に見舞われる。風呂場で転倒し、ガラス窓に左腕から突っ込んでしまうのだ。ガラスの破片は左ヒジの他、左手中指や薬指にも深刻なダメージを与え、それが原因でグラブをはめられなくなった。志半ばで馬場はプロ野球との決別を余儀なくされたのである。<ボールを投げられても、受けられないんじゃ、プロ野球の選手はつとまりません。(中略)これはくやしかったですねェ>(自著『たまにはオレもエンターテイナー』かんき出版)

 

 実は馬場、明石のキャンプでは外野も練習している。足は遅かったが、打撃は決して悪くなかった。アテ馬やワンポイントリリーフなど奇策を次々に披露した魔術師のことだ。もしかすると馬場を外野手として起用する案も温めていたのではないか。フェンス際での209センチのジャンプは圧巻だったろう。

 

 自著で馬場は、こう述べている。<あの事故がなかったら、オレはこの年、セ・リーグを制覇し、日本一となった大洋ホエールズの一員として働いていたと思うんですがね>(同前)。人生一寸先は闇。いや、その後、プロレスラーとして大成功を収めることになるわけだから、闇の先は光か――。

 

<この原稿は23年6月7日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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