第257回 オシム監督との出会い ~楽山孝志Vol.10~
中京大学4年生の楽山孝志は、サッカー部監督だった城山喜代次に呼ばれ、こう言われた。
――ジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド市原・千葉)から獲得の話が来ている、お前、行くか。
練習参加以来、ジェフのスカウトが、ほぼ毎試合視察に訪れていた。自分を見守ってくれているジェフから声がかかればいいなとは思っていた。実際にプロ契約の打診をもらい、まずはほっとした。
生まれ故郷の富山を出て、静岡県の清水商業、そして愛知県の中京大学でサッカー続けてきたのは、プロ選手になるという思いがあったからだ。ただ、次の瞬間、プロ選手として自分がやっていけるかを問われることになるのだと思った。
中京大学には、高校卒業後にJリーグに入り、数年Jリーグで活躍した選手もいた。彼は楽山がプロを目指しているというと、こう助言した。
――まずは3年間プロの世界で生き残ること。3年残れば5年やることができる。5年できれば次は10年を目指す。まずは最初の3年間だ。
ジェフの2003年シーズンは韓国の南海島キャンプから始まった。楽山が大学3年生の春休みのキャンプに参加にしたとき、監督を務めていたのはジョゼフ・ベングロシュだった。ベングロシュは1年間の契約終了後に退任しており、後任監督はまだ決まっていなかった。
このシーズン、ヴィッセル神戸から元日本代表の望月重良、水戸ホーリーホックからゴールキーパーの石川研、ベガルタ仙台から中島浩司などが加わっていた。新卒選手としては楽山の他、駒澤大学から巻誠一郎、ユースから工藤浩平が昇格した。
プロでやっていけるという手応えはあったかと問うと、大きく首を振った。
「他の選手のことを見ている余裕はないですよね。プロで生き残るには何をすればいいか、にフォーカスしていました。長くプロでやっている人はどう違うんだろう、ひとつでも自分のためになることを吸収しようと考えていましたね」
ただ、今から考えると現実的過ぎたかもしれませんと首を傾げた。
3年間やらなければならないと自分で制限を掛けてしまったような気もしますと付け加えた。
キャンプ入りしてしばらくしたある日のことだった。グラウンドに白髪で大きな身体をした白人が現れた。
「印象は背中が少し曲がった、でっかいおじいちゃんでしたね。ただ目つきが鋭く、オーラが凄かったことを覚えています」
初体験のウイングバック
新監督となった、イビチャ・オシムである。
楽山をジェフに繋いだ強化部長の昼田宗昭からは、世界的に有名な監督が来たと教えられた。1990年のワールドカップ・イタリア大会でユーゴスラビア代表を率い、準々決勝でディエゴ・アルマンド・マラドーナのいたアルゼンチン代表と対戦し、延長戦でも勝負が付かずPK戦で惜しくも敗れた。当時のユーゴスラビア代表にはドラガン・ストイコビッチ、デヤン・サビチェビッチなどの名手が揃っていた。92年の欧州選手権では優勝候補にも挙げられていた。
しかし、そのときはピンと来なかったですね、と楽山は頭を掻いた。
「見識の浅い自分にとっては“世界"と言えば、(CS放送の)WOWOWで出てくるような選手の話になりますよね」
オシムはユーゴスラビア代表の後、ユーゴスラビアのクラブチームであるパルチザン・ベオグラード、トルコのパナシナイコス、オーストリアのシュトルム・グラーツの監督を務めていた。イタリアのセリエA、スペインのリーガ・エスパニョーラのクラブのような華やかさはない。
職人肌とも言えるオシムは、レアル・マドリーやバイエルンミュンヘンなどのビッグクラブ、各国の代表監督からの誘いがある中、自分の掌の上でコントロールできる小さなクラブをわざわざ選んでいた。そのため、彼の能力、実績に比して、一般的な知名度は低かったのだ。
オシム監督就任後、韓国キャンプで若手と移籍選手を中心とした初めての練習試合で得点を挙げたのは自分だったと楽山は振り返る。
「相手は覚えてないですけど、韓国(Kリーグ)のチームでした。最初、トップ下のシャドー(ストライカー)で起用されたんです。そのとき点を獲りました」
その後、楽山は真ん中からサイドに回された。
「途中から、3-5-2のウイングバックです」
中盤の5枚の左である。
「ウイングバックってそれまでやったことはなかったんです。オシムさんは組み合わせとバランスを重視して選手を起用する事が多かったですが、ドリブルが好きな自分をサイドで何かアクセントを起こさせるという意図があったのかもしれません。
後に広く知られることになるが、オシムの練習はかなり疲弊する。
「キャンプではシーズン1年間怪我なく戦う為のベースを作る狙いがありますが、かなりの量を走りました。素走りから始まり、ボールを使って、いつ、どこに走るべきかのグループ戦術要素が多く含まれ、さらにルール設定上で走らざるをえない様にデザインされたトレーニングが多く、全てはトレーニングを通じてオシムさんが求める最低限必要な走力の基準を選手に伝える意図と考えながら走れる選手と走れない選手の見極めを行なっていたと思います。とにかく肉体的にとてもハードなキャンプでした」
その後、ぼくはキャンプ途中(Jリーグ主催の)新人研修でチームから離れ少し身体を休む事ができましたが、と笑った。研修後、チームに合流した楽山はオシムという監督の凄さをまざまざと思い知らされることになる。
■田崎健太(たざき・けんた)
1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。
著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。
2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com