広島カープが後援会という球団運営資金を賄う組織を得たのは、前回までの考古学で述べてきた。親会社のない球団にあって、県民市民からの拠金で賄っていくことになるのである。カープの飛躍の時期と同じくして、昭和26年9月、日本も国際社会に復帰し、平和国家としての歩みを進める。

 時代は明らかに変わった。戦後復興期の最中、食うにも食えない苦しい日々に、潤いと活気がもたらされた。広島のみならず、全国的な野球人気の高まりはとどまるところを知らず、さまざまな野球の試合が行われたのもこの時期の特徴である。

 

 プロでも通用するチーム

 話は少しばかり前後するが、カープ結成2年目のシーズン。日本の独立を迎える直前の8月15日、終戦記念日にアメリカから野球チームがやってくるのだ。名前は、「レッドソックス」――。

 レッドソックスと聞けば、アメリカ大リーグのチームをイメージする。だがシーズン中とあって、来日はできない。このレッドソックスとは、「ハワイ・レッドソックス」というハワイの日系人で結成された強豪チームのことだ。

 

<東京六大学野球連盟と日本社会人野球協会が共同招へいしたハワイ・レッドソックスは十五日午後三時羽田着>(「中国新聞」昭和26年8月15日)とあり、<十八日の対慶大戦を皮切りに全国各地で十五試合を行う>(同前)という来日スケジュールだった。

 

 このチームには大きな特徴があった。

<同チームには広島出身の二世選手も多くそれら選手の希望で九州からの帰途広島でも二十七日午後四時から全広島と一戦を交えることになり>(同前)。

 全国各地で試合を行った後、広島出身者がずらりと並んだ二世選手らの凱旋舞台を広島で設けようというのだ。

 

 また、このレッドソックスが対戦する広島のチーム「全広島」は、第3回のカープの考古学で紹介した「オール広島」(全広島)である。広商・広陵のOBらで結成した社会人の硬式チームで、監督は広陵OBで、後々まで広島のアマチュア野球界をけん引する三浦芳郎監督である。全国大会にも出場したことのある郷土を代表するノンプロチームだった。

 

 いっぽうのハワイ・レッドソックスにおいて、郷土広島に凱旋する二世選手らのメンバーは、監督の国久ヨシオをはじめ、投手は上野イサオ、グネス沖、ビル西田と7人中3人が広島出身者である。野手では捕手の渡辺ミツル、一塁手のスタンレー橋本、三塁手の梶原アツム。

 

 対戦前の評判は<レ軍はハワイ・リーグの首位にある強チームでその実力は日本のプロ野球の中位ぐらいといわれている>(「中国新聞」昭和26年8月26日)という。プロでも通用する日系人チームとあって、全広島が苦戦するどころか、大敗するのではないかというのが大方の見方だった。

 

“赤ヘル”のルーツ?

 8月27日、決戦の舞台は広島総合球場。広島の夏は暑く、ナイター設備も当然ながらない。開会前に大原博夫県知事による挨拶が行われ、両チームがマウンドをはさんで、左右に整列して話を聞いた。

 

 夕方、午後5時40分からプレイボールとなった試合は、前評判どおり、レッドソックスが、毎回のように得点を重ねた。全広島のメンバーにとって、いきなり決まった試合とあって、体が仕上がっておらず、相手に圧倒されるばかりだった。

 レッドソックスは15安打を浴びせ、大差がついてもプレーに緩慢さが見られることはなく終始圧倒してみせた。結果は13対3の圧勝だった。

<レ軍はこの廣島の自滅に楽勝したが、よく打ちよく走り最後まで力をゆるめなかった試合態度はさすがであった>(「中国新聞」昭和26年8月28日)と評された。

 

 この時のレッドソックスのユニフォームは<赤い帽子、赤線の入ったズボン、ストッキングと派手なユニフォームに巨体を包み>(同前)とある。

 カープの本拠地である広島総合球場において、初めて赤色のユニフォームを着たチームだったのかもしれない。それが後にカープが赤ヘルをかぶり、戦う軍団へと成長していくルーツだと考えたらドラマチックである。初優勝から、さかのぼること、四半世紀前のことである。赤い帽子など考えられなかった時代に、広島での赤いユニフォームのお披露目でもあった。

 

(写真:2008年、旧広島市民球場のファイナルの年に観戦する岸田文雄代議士<当時>)

 近年、広島で行われたG7 広島・サミットにおいて、イギリスのリシ・シナク首相が、広島出身の岸田文雄首相が大のカープファンであることにちなんで、カープのロゴ入りの赤いソックスを履いて、SNSで発信するという粋な心づかいを披露した。

 

 余談はさておき、時代はカープの草創期である。ユニフォームの色どころではない。試合に着るユニフォームにも事欠いていたのだ。前年(昭和25)1月15日のカープ結成披露式には、急きょつくらせたユニフォームで、間に合ったのは22着しかなく、グラウンドに整列した選手らの中には、背広姿で整列した者がいたことは、有名な話である。こうした苦境から脱した2年目のカープは、後援会からの資金を得ることに成功し、監督の石本秀一が次なる手を打つのだ。

 

 女性後援会の結成

 カープ史の中で、幾度か女性により救われた軌跡がある。この時期、球団運営資金が賄えるようになったことから、石本をはじめ、単身赴任の選手らが住む選手寮・御幸荘において、会合を持っている。

<広島市内の女性ファン二十数名が五日午後八時から皆実町御幸荘で女性カープ後援会結成準備委員会を開いた>(「中国新聞」昭和26年9月7日)というのだ。

 結成当時のカープであるが、選手として峠を越えた妻帯者で、かつての名選手や、高卒のルーキーなどが多かった。とはいえ、地元広島では人気の的であった。弱小といえどもプロ選手であることには変わりはなかったのだ。

 女性ファンの後援会の狙いであるが、<とりあえずカープナインのため『カープ軍ユニフォーム製作募金』なども行う>(同前)とされた。

 

 まずは、ユニフォームを整えたい――とは、石本の切なる願いであったろう。

 カープ創設から2年目のこの時期、石本は「カープの現状を語る」を見出しにこんなことを新聞インタビューで答えている。

 まずは戦力強化においては<「高校野球からも採用したいんだが、他球団がウの目タカの目で甲子園にガン張っているんでカープに来るのは、他球団の選り残りになるといえる>(「中国新聞」昭和26年8月26日)と前置きした上で<「しかし、この選り残りに案外の大物があることは知っていてほしい」>(同前)と結論付けている。

 

 さらに記事では、前月に、後援会結成披露式において、271万円という県民市民からの大きな拠金を得たにもかかわらず、すでに、石本の視線の先は、翌年に置いているのだ。

<「来シーズンの準備などについて今から対策を立てる必要があり強化するにはどうしても会員の増加運動をせしめるほかなく」>(同前)とさらなる会員を増やして、資金増を目論むのである。

 

 さあ、石本カープが未来への飛躍を願い、さまざまな手を打ち始めた2年目のシーズン。カープのユニフォームはどうなるのか。新入団選手の獲得によって、戦力アップがのぞめるのか。後援会という大きな資金源を得た石本は、いかなる挑戦を続けるのか、また、その挑戦はいつ芽吹き、大地に根付いていくのか、次回以降の「二年目の総括編」でお届けする。ご期待あれ。

 

【参考文献】

「中国新聞」昭和26年8月15日、26日、28日、9月7日

 


西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーのフリーライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)


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