西本恵「カープの考古学」第62回<カープ飛躍の契機、後援会設立編その12/日本の国際社会復帰。広島からのエール>

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「カープの後援会の設立を、ここに宣言します」。その声は広島総合球場に響き渡った。昭和26年7月29日のことであった。この雄叫びが、球団関係者をはじめファンにとっていかに心強かったことか。発足から経済的な危機に直面し、幾多の存続の危機にさらされたが、県民市民からのカープを育てようという情熱によって、困難を乗り越えていく。

 

 石本秀一は自分の思いをこう記している。

<県民の郷土愛を肝に銘じて、今後の努力を続けなければならぬ>(「中国新聞」昭和26年7月29日)

 石本にとって、後援会の設立は、人生の集大成ともいえる覚悟であったろう。後援会構想をぶち上げてから、わずか4カ月あまりで華々しく結成披露式を実施できたことは広島の大ニュースにもなった。一方、この時期、広島は慌ただしくなっていた。原爆投下から丸6年を前にして5月頃から、原爆死没者の七回忌の法要が広島市内や近郊のあちこちで営まれ、その光景が目立ってきていた。

 

 さらに、平和祭(現・広島市原爆死没者並びに平和記念式)開催にあたり、さまざまな準備がなされていた。特に前年、昭和25年の平和祭は朝鮮動乱を受け、中止されていただけに期す思いがあったとされる。

この年(昭和26年)の平和祭には、米兵20名が招待される異例のものとなった。朝鮮半島情勢に揺れ動く世界にあって、米兵の奮闘ぶりを称え、様々な配慮がなされたのである。

<北鮮動乱に五十回以上出撃したパイロット二十名を招待午前八時半の慰霊祭に参列する>(「中国新聞」昭和26年8月5日)

 さらに、勇敢なる英雄として称えるために、<これらはテレビジョンにとり『空軍勇士広島の一日』として全米に放送される>(同前)というのだ。また、これだけではなかった。米軍岩国基地の好意から、飛行機を飛ばし、花束の投下が計画された。

 

<午前八時半には、本社(中国新聞社)委託の花束を供養塔の上空からパラシュートで落とすことになっている>(同前)

 この花束を取得された方は、供養塔へ供えていただきたいという旨の記事までが、掲載された。

 時代は変わっていく。日本が大東亜共栄圏を築くために行った戦争が終結し、世界情勢は日本の民主国家として歩むことが確定的となった。サンフランシスコ講和会議を前に、再軍備はおろか、軍国主義の再来など、到底考えられない時代となった。

 

揺れ動く朝鮮半島情勢下

 しかし、日本海を挟んだ朝鮮半島においては、自由主義国家と、共産主義圏の国々がしのぎを削っているのだ。

 朝鮮動乱発生から1年あまりが経過し、“いよいよ休戦か”“交渉は決裂するのか”。その動向に世界の注目が集まっていた。北朝鮮側38度線付近には、ケーソンという緩衝地帯があった。休戦交渉を本格化させようかという最中、そのケーソンに、北朝鮮軍が武装兵を配置したとされる。このことは、ダグラス・マッカーサー後任である、マシュー・リッジウエイ司令長官の思いにさわった。

<武装部隊が、開城(ケーソン)の休戦会場場から約百ヤード以内でみられたことは目撃者によって公式に立証された>(「中国新聞」昭和26年8月6日)

 

 この時期は休戦に向けて、1歩進めば、2歩後退するということが続いていた。なぜ、緩衝地帯に武装部隊を配置するのか――連合国軍側はナーバスな対応に切り替わり、休戦協定は打ち切られていく。再び戦火の場と化すのである。実際に休戦となったのは、昭和28年のことである。

 日本海の向こうの不安定な朝鮮半島情勢において、広島では復興のシンボルであるカープの後援会が立ち上がったことは、広島の人にしてみれば、最高の慶事であったろう。カープが存続できることに見通しが立ち、日々の生活にささやかであるが、潤いと話題を生んだ。それと共に、2年ぶりの平和祭の挙行となり、広島を取り巻く環境下は、俄然明るくなっていった。

 

 それも、そのはずである。

 広島カープは、球団運営を賄うだけの親会社が存在しない中でのスタートであったことは、過去に幾度か述べてきた。資金源の無い中で球団運営ができるわけもなく、解散かと、ファンをやきもきさせた。

 

 石本の「ワシに任せてもらえまいか」との一言が世紀の逆転劇を生んだのだ。不可能を可能に、資金の無から有へと、続々とお金を集める手立てを生み出したのだ。石本が立ち上げた後援会組織には、幾多の人々が、我も我もと手をあげて、拠金し合ったのだろうか。以下が後援会員が集めた金額の変遷をまとめた一覧表(図。さらに詳しい表はこちら)である。

 

 わずかな、毎月の拠金は、一人あたり20円であるが、まさに塵を積もらせて山としたのだ。

 こうした後援会から、毎月、持続的にお金が入るようになったことが、選手らに少しずつ好循環をもたらした。試合においても粘り強さを増していく。代表的ともいえる試合があった。

 9月2日。この日は、サンフランシスコ講和会議に臨む、吉田茂首相以下、与党各派代表者をはじめ、全権団6名が経由地であるハワイを発ち、サンフランシスコに向けて飛び立った日である。いまか、いまかと日本独立への道を歩みはじめる会議へと、当然ながら、緊張感が張り詰めていたが、友好ムードも広がり、それらが入り混じった日でもあった。

 

時代の変化とともに

 その日の試合について、であるが、カープの対戦相手は、セ・パ分裂初年度にセントラルを制覇した松竹ロビンスだった。広島総合球場に詰めかけた、あふれんばかりのファンは3万人と発表された。

 カープは、先発に杉浦竜太郎を立て、松竹は眞田重蔵と互いに好投手をぶつけた。9回を終えて2対2の同点。松竹を相手に奮闘するカープの粘り強さが出たのは延長11回の攻防である。11回表、松竹はランナーを置き、金山次郎の二塁打で1点を勝ち越し、これで勝負あったかに見えた。しかし、ここからがカープの真骨頂であった。その裏、長持栄吉がヒットで出塁。得点圏に進塁させた後、巨人から移籍してきた山川武範がライト前に流し、同点に追いついた。ここ一番の強さは、延長12回裏にも表れた。紺田周三が一塁オーバーの幸運なテキサスヒットで出塁し、岩本章がバントで送った。さあ、押せ、押せの最高の場面で、キャプテンの辻井弘が落ち着いてボールを見極め、フォアボールで一、二塁とした。

 

 ここで好調の長持が、レフト方向に引っ張ったヒットで紺田がホームイン。延長12回、サヨナラ勝ちを収めた。

 この粘り強さは、後援会からの資金の流れが確たるものとなり、給料の支払いが、滞りなく行われるようになったことが、要因なのは言うまでもなかろう。

 沸き上がるカープファン。“カープは確かにやっていける”との思いが、さらに後援会を成長させるのである。

 

 さて、サンフランシスコ講和会議へ向かう全権団――。

 吉田茂首相をはじめ、民主党最高委員長の苫米地義三、自由党顧問の星島二郎、緑風会議員総会議長の徳川宗敬、さらに広島出身で大蔵大臣の職につく池田勇人、日本銀行総裁の一万田満登らは、会議へ向けて着々と準備を進めていく。また、この全権団を支え、随行した人物の1人に松本瀧蔵がいたことは、広島の人の誇りでもあったろう。広陵中学出身である松本は、カープを陰から支え、後に「スポーツ代議士」と呼ばれる人物で、カープの育成にも携わる人物である。松本の講和会議に向けた思いは、こうである。

<恐るべき原子爆弾が東洋で使用され、その第一弾が広島に落ちたことは世界の人々の忘れることができないことである>(「中国新聞」昭和26年8月14日)と、中国新聞主催の座談会でコメントをしている。こうした広島への思いを抱きながら、随行したのであろう。

 

 不思議なものだが、広島出身の松本に加え、カープ創立準備委員長を務めた谷川昇も、アメリカに留学した時代に過ごした西海岸沿いを同窓会旅行として、旅しているのだ。カープに関わる人物が、同時期にアメリカに行っており、非常に興味深いことである。

 

 ただし、この会議の大義は、あくまでも日本の国際社会復帰であり、それを認めるか、否か。反自由主義国であるソ連の動向に注目が集まった。結果、ソ連をはじめ、チェコ、ポーランドの3か国は署名を拒否したが、参加49カ国から署名をもらい、日本は国際社会への復帰をついに果たしたのだ。

 進駐軍が、東京に進駐した昭和20年9月8日から、丸6年を経て、日本はアメリカの占領下から脱し、独立国家としての歩みを進める。時代は変わった。時を同じくして、カープもやっていけるという日々が訪れたのは、カープ史としても誇らしい一幕であろう。

 

 さあ、カープは後援会の設立により、飛躍の契機をつかんだ。2年目のシーズン、リーグから抹殺の条件とされた勝率3割を割ることなく、持ちこたえることができるのであろうか――。来月からのカープの考古学は、これらカープの「二年目の総括編」をお届けする。乞うご期待。

 

【参考文献】

『カープ50年―夢を追って―』中国新聞社

「中国新聞」昭和26年7月29日、8月5、6、14日

 


西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーのフリーライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)

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