カープは創設2年目のシーズン中に、生まれ変わったと言える。後援会という球団運営資金を賄う団体をバックに、飛躍を遂げていく。この年、日本も生まれ変わっていくのである。昭和26年9月8日、サンフランシスコ講和会議が開催され、日本が昭和16年12月8日の真珠湾攻撃に端を発した世界大戦から、約10年ぶりの国際社会への復帰を果たす。

 

 日本が、アメリカによる占領統治に終わりを告げたことを世界に伝えられる日々となったのだ。しかしながら、国民的な感情に不安がなかったかといえば決して、そうではない。

<講和締結後といえども、自主独立権の回復と手放しでよろこぶことはできない。今までのようにアメリカの経済援助も期待できないから、全く文字通り自主独立である>(「中国新聞」昭和26年9月7日)

 

 要は、これからは自立して経済を賄っていき、日本国民約8400万人を食べさせていかなければならない。独立を目指して一心に努力してきたことは、占領統治を担ったアメリカのハリー・S・トルーマン大統領の演説文の一部にも現れている。

<日本には史上空前の目ざましい進歩の時期が訪れた。今日の日本は六年前の日本とは全くちがった国になっている。旧来の軍国主義は一掃された、これは単なる占領軍の布告によって行われたものではなく圧倒的多数の日本国民自身の意思によるものであった>(「中国新聞」昭和26年9月6日)

 

 日本の占領統治下においての姿勢を称えているのである。しかし、政治的な独立を果たしたからといって、すぐにすべてがよくなるわけではなかった。

<これからは日本が自分の力で何もかも処理しなければならない点、困難が増したといってよい>(「中国新聞」昭和26年9月10日)

 

 独立を果たしたのならば、どうやって経済を賄っていくのか、当時、講和後の課題として、中国新聞(昭和26年9月4日)にはこうある。

<わが国が講和締結後に生き得る道はただ一つ、近代化された工業技術とありあまる労働力を動員し、東洋の加工業国として立つほかはないとはいままで論じつくされたことであり>

 

 資源のない日本は、戦前から蓄積された工業技術でもって、加工貿易をしながら、東洋における加工場となる。こうした生き方が求められたのである。

 

一矢報いた3連戦

 国としての独立した歩みを始めた日本――。カープ球団の財政面での独立というのは、カープの後援会結成披露式が昭和26年の7月であったことから、日本の独立とおおよそ同じ時期に相当する。カープ選手らのこれまでの戦いはというと、今晩の飯の種の獲得であったが、後援会からの資金の流れができたことで、やっと相手チームとの戦いに集中できるようになっていた。

 

 昭和26年当時、セントラル・リーグ7球団による覇権争いは、巨人に軍配が上がるのは確定的となった時期のこと。9月19日から広島総合球場、20日に呉市二河球場、そして22日の甲子園球場と広島対巨人の3連戦が組まれた。この年のシーズンまで、連盟が主催して試合を行っていた関係もあり、甲子園でも巨人と広島の試合が行われた。

 

 3連戦の見どころは、巨人の完成された打線と連勝記録にあった。

 巨人は7月に15連勝というセントラル・リーグの連勝記録(当時)を達成して意気上がっていた。さらに、9月になっても再び勢いを増し、9月19日の広島戦まで11連勝と快進撃を続けていた。この時の勢いについて、こう記されている。

<広島との三連戦につづく、後半の阪神、松竹に五連勝すれば、十六連勝の新記録が樹立されるわけである>(「中国新聞」昭和26年9月19日)

 

 カープとの3連戦を3連勝し、さらに阪神、松竹まで勝つという、予測のもとに記されている。“いかに巨人といえども、そう簡単にはいくまい”と言いたいところであるが、そこには裏付けもあった。3年目の若手投手・松田清が5月の広島戦から15連勝中と手が付けられない状態にあったからだ。しかも松田だけではなく、藤本英雄も11連勝中。さらにはエースの別所毅彦もいる。

 

 巨人強し――。ほとほと手が付けられないという前評判。傍目にはカープの3連敗が妥当だという予想だったのだ。

 しかし、勝負は蓋をあけてみないと分からない。初戦巨人の先発・藤本を迎え撃つために、カープは笠松実をマウンドに送った。

 

 3回表、巨人が平井三郎のタイムリーであっさり先取点を奪った。ここで石本は奇策に出る。何が何でも初戦を取るとばかり、ピッチャー交代を告げたのだ。3回途中からエースを投入したのだ。

 

 ピッチャー交代、長谷川――、とアナウンスされ、ファンを驚かせた。

 長谷川良平は、以降の後続を断った。この交代で勢いが出たのか、3回裏のカープは、すぐさま長谷川と白石勝巳が連打を浴びせた。辻井弘がバントで送るという手堅い攻めから、幸運もあり満塁とチャンスをつくった。

 

 ここでクセ者・武智修が、センター前にはじき返し、逆転。その後、4番に座った山口政信が、レフト前に打ち返し、3点目をあげた。この日当たっている山口は、5回裏には三塁打で2点を奪い、巨人に一泡吹かせた形となった。

 

 巨人も5回と7回に1点ずつを加えて食い下がったが、7回裏のカープの攻撃で武智が三塁打を放ち、1点を加えた。地元、広島総合球場の大声援に後押しされたカープは初戦を6対3で快勝した。

 

伏兵発掘した石本の目

 さあ、巨人の連勝を止めた上に、初戦をとったぞ、と意気上がるカープ。

 ところが、である。翌20日、呉市二河球場において、カープは巨人のエース別所に4安打に抑えられ、0対3と完封された。さらに、22日の甲子園においては15連勝中の松田に3安打で2対9と2連敗。松田はなんと16連勝まで記録を伸ばした。

 

 カープ2年目のシーズンである昭和26年は、巨人が強かった。盤石な投手陣を武器に、打者を次々と手玉にとっていく。

 松田はこの年、23勝3敗、防御率2.01で新人王に輝いた。藤本英雄は15勝7敗、防御率3.13。エース別所毅彦は、安定感抜群で21勝9敗、防御率2.44。カープがなかなか打てなかったといわれる大友工は11勝4敗、防御率2.41と、ずらり並んだ二桁勝利投手が、うらやましいと、思わずにはいられなかった。

 

 カープはこの3連戦、長谷川良平(17勝14敗、防御率3.48)への継投でもって先手を取ったが、先発陣でいうなら、初戦の笠松実(5勝15敗、防御率4.50)は2回まで抑えたが、2戦目は杉浦竜太郎(6勝14敗、防御率3.84)、3戦目は萩本保(1勝7敗、防御率6.56)で敗れた。巨人との投手陣を比較されると、カープとしては取りつく島もなかった。

 

 しかし、カープ監督の石本秀一は、初戦の継投策に加えて、さらに奇策を打っているのだ。3戦目、9月22日の巨人戦の継投に注目したい。萩本が打たれ、石川清逸へとスイッチ、さらにある投手を3番手として登板させている。

 渡邊信義だ。この投手はいったい誰なのか――。この日、萩本や石川は打たれているが、6回以降はすべてゼロが並んでいる。勝ちが見えたから、巨人の攻撃の手が緩んだといえば、そうかもしれないが、渡邊はきっちりと仕事を果たしている。

 

 この年、優勝は巨人。石本カープ2年目、チームの成績は7位と芳しくなかった。しかし、補強の手は緩めなかった。夏の甲子園大会後とあれば、高校球児に目をやる他球団の選手獲得事情はさておき、石本が目をつけたのは、軟式野球であった。“なぜ?”と思えるが、このあたりが石本の真骨頂、素材を見抜く目なのである。

 次回の考古学で、詳細にお伝えする。乞うご期待。

 

【参考文献】

「中国新聞」昭和26年9月4日、6日、7日、10日、19日、20日、21日、23日

 


西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーのフリーライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)


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