誰が38歳の爆発を予測できただろう。
 6月13日現在、25本塁打、57打点でパ・リーグの2冠王。長打率にいたっては7割3分3厘と驚異的な数字である。
 楽天のベテラン、山崎武司のバットが火を噴き続けている。

 96年に当時、巨人の松井秀喜に競り勝って39本塁打でセ・リーグのホームラン王に輝いたが、それからはパッとしなかった。96年を除けば、ホームランの数は99年の28本が最多。

 オリックス時代の04年には、わずか4本しかホームランを打つことができず、そのシーズンを最後に自由契約扱いになった。早い話がクビである。
 誰もが、この時点で「山崎はもう終わった」と思った。楽天が拾ったのも選手層が薄かったためであり、外国人選手の「保険」的な意味合いが強かった。

 ところが、楽天入りが山崎には吉と出た。当時の田尾安志監督から打法改造を命じられ、試行錯誤の末に、広角に打てる技術をつかみ取ったのだ。

 それまでの山崎は典型的なプルヒッターだった。ポイントを前に置き、本人が言うには「来た球をドーンと打っていた」。打球はほとんどがレフト方向に飛んだ。
 しかし、年をとるにつれてスイングスピードが鈍っていった。とらえたと思ったボールがとらえ切れない。どうすれば、苦境から脱することができるのか。自問自答の日々が続いた。

 田尾のアドバイスは単純明快だった。
「重心を後ろ足に残して打て」。
 インパクトのポイントをできるだけキャッチャー寄りに近づけたほうが、バッティングの確実性は増す。少々、振り遅れても、ライト方向に打球を運ぶことができる。

 打法改造の必要性を、山崎は頭では理解していたが、いざ打球が詰まると、不安が頭をよぎった。バッターにとって詰まらされるくらい嫌なことはないのだ。
「それで、ちょっとでも昔のようにポイントを前に持っていこうとすると、田尾さんから“オマエ、何やってんるんだ!”と怒られました。田尾さんは“練習ではどれだけ詰まってもいい”という考えの人ですから……」

 結果が出始めたのは移籍した1年目の6月頃。これまではレフト専門だったホームランがライトスタンドにも飛び込み始めた。山崎はプロ入り19年目にして打法改造に成功したのである。

 復活の手助けをした、元上司の田尾はこう語っていた。
「これまで20年近くやってきたバッティングを変えるんだから、そりゃあ、勇気がいったと思いますよ。でも、根気よくやり遂げましたよね。昔はあんなにライトや右中間方向にいい打球は飛んでいませんでしたよ」

 まだ先の話だが、両リーグでのホームラン王となるとタフィ・ローズ以来、プロ野球史上、3人目ということになる。

<この原稿は07年7月1日号『サンデー毎日』に掲載されています>

◎バックナンバーはこちらから