ゼロを1にする天皇杯の番狂わせ

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 ゼロを1にする。1を2倍にする。どちらも簡単なことではないが、個人的には、前者のほうがより困難かな、と考えている。

 

 火曜日の山梨県山中湖村。避暑地とはいえ、冷房のない蒸し風呂のような体育館で、一人の米国人アスリートが日本人に交じって滝のような汗を流していた。

 

 彼の名はデビン・ファンチェス。NFLのファンならご存じかもしれない。元カロライナ・パンサーズのワイドレシーバー。ケガでアメフトからはリタイアした29歳が、バスケットボールBリーグの3部、B3に所属する湘南ユナイテッドの練習に、トライアウトをかねて参加していたのである。

 

 アメフトの現役時代、2ケタ億円を超える収入を得ていたファンチェスにとって、挑戦の目的はもちろんカネではない。大学進学時に断念した、アメフトと同じくらいに大好きだったバスケのプロになりたい。その第一歩として、湘南ユナイテッドのトライアウトに参加したのだという――。マイケル・ジョーダン・モデルのシューズを履いて。

 

 この原稿を書いている時点で、2日間予定されていたトライアウトの成否はわかっていない。ただ、もし合格するようなことがあれば、大きなニュースになるだろうし、それは、湘南ユナイテッドというチームの存在を知らず、観戦経験もない層を試合会場に引き付けようとする――つまりゼロを1にしたいフロントの狙いとも合致する。トライアウトを実施する側と参加する側、どちらにしても非常に興味深い挑戦である。

 

 話は変わって天皇杯。先週行われた3回戦でも、番狂わせが相次いだ。J2の栃木、町田、甲府がJ1勢を退けたばかりか、JFLの高知が2回戦のG大阪に続き、横浜FCを喰ってみせた。これぞカップ戦の醍醐味、といったところだろうか。

 

 ただ、個人的には意外な番狂わせが起きたこと以上に嬉しかったことがあった。栃木、町田、甲府、そして高知。J1を倒した彼らは、すべてホームで戦っていたのである。

 

 以前、天皇杯に関しては苦言を呈したことがあった。異なるカテゴリーのチームが対戦する際、ほとんどの場合、上位チームのホームで試合が行われる。これでは、番狂わせの起きる可能性が激減してしまうではないか、と。

 

 天皇杯史上に残る番狂わせといえば、いまから14年前、当時地域リーグ所属だった松本山雅が浦和を倒した一戦がある。松本ホームで行われたこの試合には、1万5000人近い観客が集まり、そして、この試合に勝ったことで、松本のサッカー熱には火がついた。ゼロを1にした試合だったと言っていい。

 

 勝つかどうかわからない下のカテゴリーのチームが、数週間後、数カ月後の試合会場を押さえるのは簡単なことではない。そうした点も、上位カテゴリーのチームがホームになりがちだった一因だろう。

 

 だが、時代は変わりつつある。大会を主催する側も、参加する側も、少しでも番狂わせの可能性を高めるべく動いてきた。レッズを倒した歓喜が緑のファンを増やしたように、日本全国津々浦々に新たな種が蒔かれることになる。

 

 ゼロを1にするきっかけの一つとして、今後、天皇杯にはより大きな意味を持つことになるだろう。ちなみに、川崎Fに挑む高知をはじめ、4回戦も試合会場は下部カテゴリーに属するチームのホームで行われる。

 

<この原稿は23年7月20日付「スポ-ツニッポン」に掲載されています>

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