2年ごとの女子W杯開催考えてもいい
チームを作った。自分たちの実力が知りたくなって、隣町のチームに試合を申し込んだ。勝った。次の相手を探す。また勝った。今度は足を延ばしてみる。また勝った。もしや、自分たちは地上最強なのではないか……とうぬぼれていたら、まったく違う言語を話す、まったく違った文化圏のライバルが出現した。ならば、どちらが最強か、決着をつけなければならない――。
ざっくりいうと、かくして生まれたサッカーにおける究極の大会が、男子のW杯だといえる。まず土壌があり、そこから上へ、横へと広がっていった。サッカーに限った話ではない。五輪にしても、その他の各種世界大会にしても、ほとんどは同様の系譜を辿っている。
女子のサッカーは違う。
なぜ女子W杯は始まったのか。土壌があり、そこから上へ、横へと広がっていったからなのか。つまり、生命の進化よろしく、自然の流れによって生まれた大会だったのか。
違う。男子がW杯をやっていたから、だった。土壌があったから生まれたのが男子W杯だとしたら、土壌を作るために、つまり女性がもっとサッカーをプレーできる、楽しめる環境を耕すために誕生したのが女子W杯だった。
大方の阪神ファンが、WBCで侍ジャパンが負けたとしてもプロ野球観戦の習慣を放棄しようなどとは微塵も考えないように、イングランドの多くのサッカーファンも、代表がW杯出場を逃したからといってプレミアへの興味を失ったりはしない。世界大会は世界大会として楽しむが、日常の野球は、サッカーは、また別物なのである。
女子サッカーは、そこが辛(つら)い。
先週終わった女子W杯は、史上最多の観客を動員したとされる。なでしこの奮闘も含め、素晴らしく見どころの多い大会でもあった。
では、オーストラリアでは、ニュージーランドでは、今後女子サッカーが根付いていくだろうか。国内リーグは、W杯を彷彿させる活況を呈するだろうか。
たぶん、そうはならない。
今回の女子W杯に多くの観客が詰めかけたのは、W杯だから、世界最高の大会だから、だった。誤解を恐れず言い切ってしまえば、女子のサッカーだったから、ではない。世界最高の大会を観戦の起点としてしまった人間は、地元での試合にみすぼらしさを感じてしまう。技術だけでなく、かかっているものの大きさに物足りなさを感じてしまう。
わたしたちは、日本人はそのことをよく知っている。
なぜ12年前、日本中はなでしこに熱狂したのか。勝ったから、だった。なぜ米国の女子サッカーは国内で一定の支持を受け続けているのか。勝ってきたから、だった。日本に限らず、ほとんどの国の女子サッカーは、W杯での結果が国内のサッカー人気に直結する構造を内包している。
男子のサッカーは、W杯がなくても滅びない。W杯に出場経験がなくても、サッカーに熱狂する国はいくつもある。だが、女子の場合は、世界大会がなければ、国民の関心は集めにくい。
ならば、機会を増やすことはできないだろうか。
以前、男子のW杯を2年に1度開催しては、という声があがり、猛反発を食らったことがあった。だが、女子に関しては、2年に1度の開催を考えてもいい。というか、そうすることが、世界中に女子サッカーの観戦習慣をつけさせる最良の方法ではないか、という気もする。
<この原稿は23年8月24日付「スポ-ツニッポン」に掲載されています>