エンゼルス大谷翔平が右肘じん帯を損傷したことにより、再びトミー・ジョン手術(側副じん帯再建術)を受けるかどうかに注目が集まっている。

 

 言うまでもなく同手術の生みの親は、フランク・ジョーブ博士だ。博士のスポーツ界、とりわけ野球界への貢献は特筆すべきものがあり、9年前に88歳で他界した際には、MLBのバド・セリグコミッショナーが「野球界の医療に改革をもたらした偉大な紳士」と最上級の言葉で追悼した。

 

 多くのイノベーターに特徴的に見られるように、ジョーブ博士の経歴もまた異色である。1925年7月16日、米ノースカロライナ州生まれ。父親は郵便局員。裕福な家庭ではなかった。

 

 成績優秀ながら大学には進まず、高校卒業後、軍隊に入り、連合国軍の一員としてノルマンディー上陸作戦にも従軍した。ただし兵士としてではなく一介の衛生兵として。

 

 最初から衛生兵を志望したわけではなかった。身体検査の結果、偏平足が判明。これが兵士としての適性に欠けると判断されたのだ。

 

 矢弾飛び交う戦場では、一瞬の判断ミスが命取りとなる。負傷した兵士に応急処置を施し、軍医の指示を待つのが衛生兵の主な任務。ジョーブ青年は、これを完璧にやりとげた。しかも手先が器用ときているから、どの軍医にも重宝がられた。

 

 兵役を終え、除隊になる直前、ひとりの軍医から声をかけられる。「フランク、除隊したら何をする?」「まだ決めていません」「だったらサージャン(外科医)になりなさい。キミには能力も勇気もある」「はい。子どもの頃から人のためになる仕事に就きたいと思っていました」

 

 幸い、米国には第2次世界大戦中の44年にフランクリン・ルーズヴェルト政権下で成立した復員兵援護法があり、この中には教育恩典も含まれていた。いわゆる奨学金である。ジョーブ青年はこの制度を利用してカリフォルニア州のロマ・リンダ大学医学部に進み、博士号を取得した。

 

 生活費は地元紙の印刷工として夜間働き、捻出した。それゆえ新聞には愛着があり、医師になってからもよく目を通した。誤植を見つけるのがうまかったという逸話も残っている。

 

 外科医としての最初のキャリアは心臓外科だった。それがなぜ整形外科医に転じたかについては、何人かの医療関係者に取材を試み、いくつかの文献にあたってみたが、よくわからなかった。ただし、「自分は新しいことをやりたい」とは、常に語っていたという。

 

 後進の育成にも熱心だった。ロサンゼルス近郊の「カーラン&ジョーブクリニック」には梁山泊のごとく有能な若手医師が集い、博士の助手を務めた。2018年10月に大谷を執刀したニール・エラトロッシュ医師も、そのひとり。ドクター・ジョーブの遺志は、確実に次世代に受け継がれている。

 

<この原稿は23年8月30日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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