美しく、鮮やかなあのボレーシュートは今なお、みずみずしい記憶として残る。

 

 2011年1月29日、ハリファ国際スタジアムで行なわれたアジアカップ決勝。アルベルト・ザッケローニ監督率いる日本代表は、同じく優勝候補であるオーストラリア代表と戦い、0-0で迎えた延長後半4分、左サイドを突破した長友佑都のクロスが中央に送られた。フリーで待っていたのは、李忠成。利き足の左で合わせたボールはゴール左に突き刺さった。日本代表を2大会ぶりの優勝に導く、歴史に刻む一発となった。

 

 劇的な優勝から一夜明けて、チームが宿泊するホテルにおいて指揮官がメディアの取材に応じた。李の話に及ぶとザッケローニの口調がより軽やかになったことを覚えている。

 

「前田(遼一)を(延長前半の途中で)交代させることはリスクがあった。というのも、彼は守備の役割をよく果たしてくれていて、セットプレーの守備では必要だったし、15番の背の大きなボランチを抑えていた。この勝利は、15番のマーク(ミル・ジェディナク)を外すという勇気を持った行動に対するご褒美だったと思う。

 そして私は李の日頃の練習態度を見ていて、彼の貢献がチームにとって重要な意味を持つとも確信していた。彼はサンフレッチェ広島で控えの立場からチャンスをつかみ、出場試合数とほぼ同じペースでゴールを奪い獲った。ドーハでも気合はもの凄いものがあったし、彼のシーズンがまだ続いていると私は感じていた」

 

 反骨心を持って広島でゴールを重ね、代表でも控えのポジションながらしっかりと準備してきた李の姿勢を高く評価していたからこそ、指揮官は大事な局面で勝負に出ることができたのだ。

 

 李の現役引退が9月14日に発表された。

 

 昨年からシンガポールプレミアリーグのアルビレックス新潟シンガポールでプレー。今シーズンをもって現役生活にピリオドを打つことになった。

 

 2004年にFC東京U-18からトップチームに昇格し、柏レイソル、広島、サウサンプトン、浦和レッズ、横浜F・マリノス、京都サンガ、アルビレックス新潟Sと計8クラブを渡り歩いた。日本代表としては国際Aマッチ11試合2得点にとどまってワールドカップメンバーには届かなかったものの、北京オリンピック代表時代を含めてそのエネルギッシュなプレーは多くのサッカーファンの心に残っているに違いない。

 

 ボレー弾で優勝に導いたアジアカップもそうだが、筆者はジョーカーとしての印象を強く持っている。思い出すのがレッズ時代の2016年、YBCルヴァンカップ決勝戦。ガンバ大阪に0-1とリードされて後半31分からピッチに入ると、柏木陽介の右CKをヘディングで合わせて同点ゴールを挙げた。これがファーストタッチだった。チームはPK戦の末に優勝を果たし、MVPに輝いた李の働きが2007年のACL以来となる9年ぶりのタイトルを引き寄せた。

 

 李が入ると、自然とチームが活気づく。

 

 なぜそれができるのかを本人に尋ねたことがある。

 

「アイツが残り15分で入ってきたら、なんかやってくれるんじゃないかって、チームがポジティブになって足が動いたり、下じゃなくて上を向くようになればいいって、僕はそう思ってやってます。超一流の選手って、時間を止めるというか人が固唾をのむ瞬間をつくりだすじゃないですか。オーラみたいなものが空気を一変させる。それが選手の価値なんじゃないかなって思うので。先発だろうが控えだろうが、結果を出すことには変わりない。もちろん先発で出たいけど、途中出場ならそこから流れを変えられればいい。自分は(先発でも途中でも)それができると思っています」

 

 空気を一変させる力。先発だろうが途中出場だろうが、ここに彼なりのこだわりがあった。そのための工夫についてこのようにも語っていた。

 

「僕は客観的に(全体を)見るようにしています。そして先発でも途中でも、みんなと同じ時間、同じ空気、同じ世界にいちゃいけない、と。具体的に言うなら人とは違うところを見ていたり、プレーをわざと遅らせたり、逆に速くしたり。同じじゃないことを常に意識していますね」

 

 別の時間、別の空気、別の世界。何かをやってくれそうな期待感は、ここから生まれていた。「別」を心掛けたからこそ、あの伝説のボレーが生まれたというわけだ。


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