高校球児憧れの舞台、甲子園。金澤真哉さんは、そこで得た苦い経験を糧にして子どもたちに野球を教えてきた。当HP編集長・二宮清純が、その野球人生と指導方法について聞く。

 

二宮清純: 今年の夏の甲子園は、慶應義塾高校(神奈川県)が実に107年ぶりの優勝で話題を呼びました。のっけから恐縮ですが、金澤さんも話題になった記録をお持ちですね。

金澤真哉: 記録といっても私のは不名誉なもので、報徳学園(兵庫県)3年生の時のセンバツ(春の甲子園)で1回に11四死球を与えたのです。

 

二宮: 1試合ではなく、1回で、ですからね。私も初めて聞いた時は驚きました。当時の様子を詳しく聞かせてもらえますか。

金澤 1971年のセンバツ2回戦(初戦)、相手は東邦(愛知県)でした。初球が先頭バッターの左腕に当たってしまい、続くバッターへの2球目も頭に当たってしまったのです。その後は3者連続で四球を与え、6番バッターをセンターフライに打ち取ってやっとアウト1つ。でも7番にまた死球で、8番にも四球。9番のスクイズで2アウトになったものの、さらに4者連続で四球を与え、ようやく交代を告げられました。

 

二宮 打者13人に11四死球ですか……。記録を見ると、その後にマウンドに上がったピッチャーも3四死球を記録しているので、初回に無安打で11失点を喫したわけですね。

金澤 そのとおりです。もう悪夢のような出来事でした。

 

二宮: やはり、2者連続の死球が影響したのでしょうか。

金澤 動揺したことは間違いないです。どうやってもストライクが入らない。それこそど真ん中に投げようと思っても、キャッチャーミットが針の穴のように見えるんです。頭の中も真っ白になって、どうにもなりませんでした。

 

二宮 技術というより、メンタルの問題だったのでしょうね。当時の監督は、どなたでしたか。

金澤: 清水一夫さんです。

 

二宮: 清水さんと言えば神戸製鋼(社会人野球)でも指導者として活躍し、PL学園の臨時コーチ時代には、桑田真澄さん(元巨人)を見いだした方ですね。それほどの人がすぐに交代に動かなかったというのは、何か理由があったのでしょうか。

金澤: 私も「朝の1試合目だから、まだ眠いのかな」と思ったくらいです(笑)。後年、なぜすぐに代えなかったのかと聞いたら、「お前しかいないと思っていた」と言われました。甲子園に何度も出場している監督の目から見ると、制球のいい投手がいれば、打線次第でベスト8くらいまではいける。でも、優勝するためにはプラスアルファが必要で、珍しいアンダースローの速球派である私に期待したようです。

 

二宮: 優勝を目指すために、金澤さんの立ち直りにかけたと。マウンドにいる時間は随分、長く感じたでしょう。

金澤: 長かったですね。実際、どれくらいマウンドにいたのかは分かりませんが、1時間近く投げている感覚でした。レフトには1学年下で後に「青い稲妻」と呼ばれる松本匡史(元巨人)がいたのですが、守備機会がないからしゃがみ込んでいましたよ(苦笑)。

 

二宮: 試合も4-12で敗れ、結果として前代未聞の記録が残ったわけですが、周囲の反応はどうでしたか。

金澤: 「よう、四球王」とばかにされたり、子どもたちに石を投げられてからかわれたりしましたね。

 

二宮: それはひどい。野球部の仲間たちは何と?

金澤: 彼らが私を責めることはありませんでした。むしろ私を励まし、支えてくれたのです。一方で、始業式で校長先生がセンバツの結果に触れるのですが、「金澤君の立ち上がりがちょっとまずくて、1人目が死球……」と長々と話すんです。悔しさと恥ずかしさで、ポロポロ涙がこぼれました。

 

二宮: 野球自体が嫌になることはなかったですか。

金澤: 正直、やめようと思いました。それで1週間くらい家出をしたんです。山へ行ったり、海へ行ったりして身を潜めていました。

 

二宮 お気持ちは、よくわかります。その後は?

金澤 父親に見つかって家に帰り、その後、清水監督のお宅に父親と一緒に行きました。すると監督は「ああいうことがあって、皆が今後、俺がどうするのかを見ている。そして、お前も見られている。俺は夏に向けてもう1回挑戦しようと思うが、お前はどうだ?」と聞くんです。それで絞り出すような声で、「もう1回やります」と言ったのを覚えています。

 

二宮: 再起を決意したわけですね。お父さんは何かおっしゃっていましたか。

金澤: 「男だったら最後までくじけるな」と。その一言も、野球を続ける後押しになりました。

 

二宮 夏に向けては、どのような練習をしたのでしょうか。

金澤: 制球力を身につけるためには、下半身を鍛えなければなりません。それで毎朝、武庫川の河川敷を走りました。それこそ練習試合に登板して四球を1つ出すとグランド10周、四球を多く出した日は相手校のグランドから自宅まで30キロくらい走ったこともあります。1日の練習が終わった後も、暗闇でも見えるようボールに石灰を塗って投げ込みました。それでも背番号1は、ずっと後輩が付けていたんです。そして夏の兵庫県予選前、ようやく監督から「背番号1、金澤」と言ってもらえました。あの時の感動は、今も忘れられません。

 

(詳しいインタビューは9月29日発売の『第三文明』2023年11月号をぜひご覧ください)

 

金澤真哉(かなざわ・しんや)プロフィール>

1953年、兵庫県姫路市生まれ。4歳から野球を始め、高校野球の強豪・報徳学園に進学。速球派のアンダースロー投手として活躍した。甲子園には、71年の春夏2回出場。青山学院大学入学後は、1年生からエースとして活躍するも、後に腰痛とイップスを併発し、目指していたプロ入りを断念した。サラリーマンとして東急エージェンシーおよび東急メディア・コミュニケーションズで働く傍ら、少年野球のコーチに従事。城東ボーイズ(東京都江東区)の設立・指導に携わり、ボーイズリーグ(公益財団法人日本少年野球の連盟)中国遠征の日本代表監督も経験した。現在は青学大野球部OB会の理事を務めるとともに、野球指導の経験を生かし、人と人をつなげる活動を行っている。


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