伊予・松山には古狸にまつわる民話や伝説が少なくない。「松山騒動八百八狸物語」もそのひとつ。松山城主から刑部(ぎょうぶ)の称号を授かった古狸(隠神刑部)が、享保の大飢饉に端を発したお家騒動において、霊力を武器に暗躍する物語は、江戸末期、講釈師の田辺南龍により広まったと言われる。

 

 狸はイヌ科の動物で、ずんぐりむっくりしていて外見的には愛嬌があるが、嗅覚と聴覚に優れ、しかも夜行性で警戒心が強いため捕獲するのは容易ではない。

 

 名門球団の巨人と阪神双方で監督を務めた唯一の人物である藤本定義は、松山市の出身ということもあり、指揮を執るようになってからは“伊予の古狸”と呼ばれた。知略に長け、権謀術数をも弄する油断のならない人物というわけだ。

 

 巨人の初代監督として第1期黄金時代を築き上げた藤本がライバルの阪神に移るにあたっては、当初葛藤もあったようだが、「巨人・阪神が、さらに注目を集めるようになればいいだろう」という鈴木龍二セ・リーグ会長の推薦もあり、ヘッド兼投手コーチを経て、61年途中で監督に昇格した。56歳の時だ。

 

 伝統の一戦とは名ばかりで、50年の2リーグ分立以降、60年までに巨人が8回のリーグ優勝を達成していたのに対し、阪神(大阪タイガース)はゼロ。いくつかの文献を読むと、藤本は球団の派閥争い、選手間の主導権争いを不振の元凶と見なし、あれこれと改善策を模索する。巨人コンプレックス払拭のための究極の一手が、61年に巨人監督に就任し、1年目で日本一を達成した川上哲治をスケープゴートにすることだった。

 

「テツが入団した昭和13年、ワシは監督やったけど、ありゃ下手くそでどうにもならんかったわ。わしが(投手から野手に)転向させ、手取り足取り教えたんだよ」。阪神の選手たちは聞き耳を立てた。いくら巨人の後輩とはいえ、“打撃の神様”とまで呼ばれた敵将をテツ呼ばわりである。内心、川上はおもしろくなかったはずだ。しかし、長幼の序を重んじる球界にあって、先輩への異議申し立てはご法度だ。せめて反発の意思だけでも示そうと藤本をにらみつけると、その時だけ腕組みをして眠ったふりをした。これぞ正真正銘の“狸寝入り”である。

 

 62年、“伊予の古狸”に率いられた阪神は15年ぶりにリーグ優勝。東京五輪イヤーの64年にもペナントレースを制した。長い阪神の歴史の中で、2リーグ分立以降、2度、チームを頂点に導いた監督は、ともに早大出身の藤本と岡田彰布(2005、23年)だけである。

 

 週末から始まる日本シリーズ。オリックスの絶対的エース山本由伸について聞かれ、「そんなにええんかなと思てるよ」「はい打てませんって。そんなんやったら棄権するわ」「6つ負けてるやん。(ウチの)大竹(耕太郎)は2つしか負けてないで」と岡田。もう言いたい放題だ。「ワシに似てきたか」。泉下で古狸は苦笑しているに違いない。

 

<この原稿は23年10月25日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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