衣食足りて礼節を知る、という言葉はサッカーにも当てはまるのではないか、と思い始めている。

 

 わたしが生でバルセロナの試合を見たのは、88年3月のことだった。

 

 当時のバルセロナは、芸術性などまるでない、骨が軋むようなサッカーをしていた印象がある。

 

 美しさで言えばタレントを揃えたレアル・マドリードの方が上だったし、見ていて血のたぎるような感覚は、パウロ・フットレが大暴れしていたアトレティコの試合で強く感じた。

 

 ご存じの通り、クライフが監督に就任したことでバルセロナは大きく変わり、その教えを受け継いだグアルディオラによって、チームの名声は世界的なものへと高まった。傲慢ながら、あのバルサがこれほど変われるのであれば、日本だって変われる、やれるというのが、サッカーを語る上でのわたしの原点でもある。

 

 だが、最近になって、自分は大切な点を一つ見落としていたのではないか、と思い始めた。

 

 80年代後半のバルサは退屈だった。ただ、彼らはスペイン屈指の強豪でもあった。リーガの優勝回数では首都のライバルに大きく劣ったものの、弱いチームでは断じてなかった。メディアは、ファンは、彼らの願望からすれば十分にはほど遠いものの、その他大勢からすれば羨むほどの栄光を勝ち取ってきていた。

 

 つまり、サッカーにおける衣食――結果についてはそれなりに満たされていた。

 

 もしクライフが就任した当時のバルサが、衣食の満ちていない存在であればどうだっただろう。わたしだったら、まず勝利を求める。どんな内容でもいいから勝ってくれと願う。

 

 そんなメディアやファンに見守られたチームが、「美しく勝つ」という「礼節」をすんなり受け入れたかどうか。

 

 Jリーグも最終盤にさしかかってきた。首位を走るヴィッセル神戸に、「バルセロナのようなチームを」と目指したころの面影はまったくない。だが、結果という衣食が不足していたチームが、勝つために礼節を忘れがちになるのを、いまのわたしは批判できない。サッカーの試合に結果以上のプラスアルファを付加できる、あるいはしようと思えるのは、結果を出し続けたチームのみが持つ特権だからである。

 

 さらに付け加えておくと、クライフにしろペップにしろ、彼らが美しいサッカーを志向したのは、それが勝つために一番の近道だと考えたからでもある。共通意識を持つ選手が下部組織から育ってきていなければ、実現不可能なことでもあった。

 

 先週はパリ五輪出場を目指すなでしこの戦いが国際的な議論を呼んだ。ウズベキスタンとの第2戦。2-0とリードした日本は、そこで攻める意志を捨て、相手もまたそれに甘んじた。82年W杯スペイン大会の西ドイツ対オーストリアを彷彿とさせる無気力試合だった。

 

 ウズベキスタンが惨敗していれば自分たちにも突破の可能性があった中国人はアジア女王、W杯女王ともあろう国が、なんということをするのか、と。

 

 だが、中国人からすれば衣食足りて見えるなでしこは、実はリオ五輪出場を逃したチームでもある。彼女たちに、礼節になどこだわっている余裕はまったくなかった。中国の怒りもわからないではないし、個人的にはまったく好きになれないけれど、日本には日本の事情もあった。

 

 ちなみに、「衣食足りて」は中国の古典「管子」に由来する言葉である。

 

<この原稿は23年11月2日付「スポ-ツニッポン」に掲載されています>


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