西本恵「カープの考古学」第68回<カープ二年目の総括編その6/オフシーズンの試練とは!?>
カープが誕生して2年目の昭和26年、特定の親会社を持たないカープであるが、選手たちは苦境に耐えてよく戦った。とりわけ一番苦しかったことはセントラル・リーグ連盟による、カープ球団だけ試合をさせてもらえないということだった。結局、他球団から8日も遅れるという、屈辱の開幕となった。そのうえ、年間99試合しか組んでもらえず、暗にチームがなくなってくれればいいという扱いだ。これによって、カープは、シーズン中に幾度となく実戦から離れた。
まずは3月29日から4月6日まで試合なし。さらに4月19日から4月23日までも休み。当然ながら、興業収入は入らない。この不当な扱いは現代のように管理が行き届いた、環境が整ったプロ野球においては考えられない仕打ちといえよう。選手たちは、計7回にもわたって、開店休業状態に置かれたのだ。【一覧表<右>】
度重なる休業は、選手たちにとってみれば、2日目まではともかく、3日目あたりからは、身体の動きがなまってきたことを感じ、4日目になると鍛え直さなければ、いかん、となる。傍目からもはっきり分かるというから、なんともプロの世界とは厳しく、体調の管理には気を配らなければならない。
プロ野球選手が練習を休むことについて、カープOBのコメントである。
「1日休めば自分が分かる、2日休めば監督とコーチが分かる、3日休めばファンが分かると言いまして、練習は休めば休むだけダメになっていきます」(「Sports navi」2012年1月24日)
いかに1日たりとて無駄にできず、練習が大切かをカープの訓えとして、現在まで残っている。
シーズン中に選手が帰郷
しかし、カープの選手がいくら試合をしたくても、セ・リーグ連盟に組んでもらえなかった。球団とて試合がない、興業収入がないとなれば、その期間は選手たちを養っていくことが難しくなる。カープの懐事情は後援会員からの1カ月20円の会費しかないことになる。石本秀一監督が考え出した策は選手たちを一時帰宅させること。つまり、御幸荘で賄う食費を浮かせるために、選手らを実家に戻らせていたのだ。
<「休日中みっちり練習することができれば、さした影響もなかったであろうが、経費節約のため、そのつど帰省せざるを得なかった>(「中国新聞」昭和26年10月15日)と石本はコメントを残している。
この帰省期間が、いつかは明確にできなかったが、シーズン中に2回あったことは、石本のコメントからみてとれる。
<「最後の十試合に全員がスランプに陥ったことは二回の休日が非常に影響したことを痛感した>(「中国新聞」昭和26年10月15日)
前年のカープ創設1年目の夏にも同じようなことを行っている。二軍選手たちを食べさせてやることができないので、実家への片道切符だけを渡して戻らせた。以降、二度と呼ばなかったというプロ野球界における最初で最後ともいえる珍事があった。寮での賄いを節約しなければならないというのは、何といっても親会社がないカープならではのことであったろう。
この頃、戦災復興を目指し、昭和22年に始まって定着しつつあった赤い羽根共同募金の季節だった。広島の町も年末に向かって、共同募金活動であわただしくなっていた。この年の赤い羽根共同募金は、<‶赤い羽根〟の街頭募金四百万円突破に懸命の広島市ではさる一日市長、厚生局長ら両夫妻の街頭進出につぎ、七日午前十時からは、秋田市会議長、菊崎厚生委員長両夫妻もトラック隊に同乗してどっと繰出し>(「中国新聞」夕刊 昭和26年10月8日)とあるように、広島市の幹部職員自らが、町のあらゆるところに繰り出した。募金額も四百万円を突破した。
さて、どうにか乗り切った2年目のカープ選手。家族とのひと時が過ごせるオフシーズンを迎える。この時期は、カープはもとよりプロ野球選手は、プロ野球協約(※)により、野球のユニホームを着ての練習は認められない。よって、それぞれが自主練習という形で、幾人かの若手たちが寮に残され、強化練習に励んでいたのだ。
練習後のひと仕事
この年、カープで居残りを命じられたのは、長谷部稔(20歳)、萩本保(23歳)、斉藤宗美(21歳)、渡辺信義(22歳)、石黒忠(21歳)という、これからの期待がかかる選手たちだった。
宿舎(御幸荘)から歩いてわずか数分のところにある千田廟公園の広場や、長谷部稔の出身校である皆実高校(後に広島工業高校に分校化する)のグラウンドを使っての練習である。冬の陽射しは短かった。しかし与えられた練習をしなければと、1人捕手として残された長谷部は、ひたすら4人の投手の球を受け続けた。
長時間、ボールを受けた長谷部はクタクタであったが、来季の活躍を夢に抱いて頑張った。寮に帰って、さあ、風呂に、食事にとゆっくりできるはずであった。
ところが、寮に帰れば、石本御大がいる。戻るや否や、石本から発せられた一言に驚いた――。
「お前たち、これを売ってこい」と、目の当たりにしたのは、山積みにされた小箱だった。開けてみると、青色に塗られた下地に、金文字で「カ」「―」「プ」と刻印された鉛筆の山であった。
これを年末の買物で慌ただしい本通りで、売ってこいというのだ。この売り上げをカープの球団財政に、わずかでも足しにしたい――石本ならではの資金づくり策だった。
選手たちは、従うしかない。カープ若手らと共に、広島総合球場のグラウンドキーパーの土岐修三も応援に駆け付けた。この時、最前線で販売に携わった長谷部が、後のコメントでこう残している。
「鉛筆を売るのは年末はずーっとやって、年を越してもやっていました。正月だけは帰っとけということで、あとまた(年明け)出てきて、売りました。本通りの角で、看板も(出して)。そこにテーブルを並べて5人で売りました。ダース(単位)で売っていたのに、何といっても、お母さんらに、よく買ってもらいました」
この広島の目貫通り、本通商店街の現在でいうキシヨウ堂ビル(広島市中区本通)の前あたりに、テーブルを並べて販売した。行き交う人も、カープを救おうと買っていったという。
選手たちが強化練習と、カープ強化資金づくりを行うという慌ただしい年の瀬を過ごしている中、前回のコラムで紹介したエース長谷川良平引き抜き事件は、この頃に始まっていた。名古屋ドラゴンズの魔の手、黒い手が長谷川を襲っていたのだ。
カープの考古学の二年目の総括編は、今回で終回とさせていただく。来月から、「カープ再び危機――エース引き抜き事件編」をお伝えする。カープ不動のエースに躍進した長谷川の身柄をかくまい、広島からの追手をかわし、逃走を促す名古屋軍の真相を新しく発見された事実を交えてお伝えする。乞うご期待。
【※】野球協約第173条
【参考文献・資料】
「Sports navi」(2012年1月24日)、「中国新聞」夕刊(昭和26年10月8日)、「中国新聞」(昭和26年10月15日)
<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。
(このコーナーのフリーライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)