カープが2年連続最下位となる7位で終えたシーズンは、日本が独立国家として歩み始めた年であった。国民が、国家の体制に左右されずに、自由に娯楽を楽しめる気風も生まれた。プロ野球においても2リーグ制2年目に入り、ファンが根付きはじめて昭和の大衆娯楽へと成長し始めたのだ。また、さまざまな規定が整備され、プロ野球としての発展の起点にもなった年でもある。

 

 広島においても、原爆からの復興をアピールするかのように、夏季と秋季にそれぞれ、国民体育大会が開かれ、天皇の行幸もなされた。カープは若手投手の強化練習をはじめ、戦力補強へと乗り出し、水面下で上位進出を狙って動き出していた。しかしながら、資金面では県民市民らによる後援会に頼っていたこともあり、他球団から力のある選手が狙われた。シーズン中には、前年のチームホームラン王の樋笠一夫を巨人に引き抜かれた。時を経たずして、その年のオフには、名古屋軍からエース長谷川良平が狙われるという大事件が起きたのだ。一難去って、また一難とはよくいったものだが、草創期のカープには危機がとめどなく続いた。

 

“育てて勝つ”の源流

 カープの若手投手らは、シーズンが終わったからと言って、完全にオフではなかったことは前回の考古学で述べた。むしろ、カープの今後を担うとされた若手投手4人には、特訓をさせた。加えて練習終了後に鉛筆販売をさせ、球団運営資金の足しにするなど、他球団では考えられない珍景も見られた。オフシーズンも話題に事欠かなかった。

 萩本保(23歳)、斉藤宗美(21歳)、渡辺信義(22歳)、石黒忠(21歳)が参加した練習メニューはどんなものだったのか――。

 萩本は<「十一月五日以降ずっと皆実高校のグラウンドで続けている。正月を5日ぐらい休んで来シーズンがはじまるまでやります>(「中国新聞」昭和26年12月15日)と語っている。そして以下のコメントが、壮絶な練習であったことを物語っている。

<「一日に大体全力投球百四十、五十回やっているんです」>(同前)

 

 140球から150球の全力投球となると、9回を1人で投げ抜く以上の球数だ。さらにそのまま来シーズンを迎えようというのだから、ハードなスケジュールである。後の黄金期のカープの伝説にもなる、あの“投げ込み練習”は、こうした初期の練習が起点になって生まれたのではなかろうか。また、人が休んでいる時にこそ練習をする――。という時代柄もあってか、カープならではの壮絶な練習が存在したのだ。

 

 捕手として、ボールを受け続けた長谷部稔が、練習の思考を語っている。

<「一日一個ずつ多く(ストライクが)入るようにしてゆけと久森さんがよくいわれるが、これは大事なことだね>(「中国新聞」昭和26年12月15日)

 毎日140~150球の投げ込み練習において、20球中12球、13球のストライクを14球、15球と増やしていけるように目標を設定したとされる。

 

 さらに、この練習の目標として掲げた投手は、毎日オリオンズの若林忠であったようだ。

<「毎日の若林さんは、百個投げて、九十個入ったというが、そこまではいますぐムリでも、二十個で、十六、七個ならば、これからの努力で十分いけると思う>(「中国新聞」昭和26年12月15日)

 この年まで通算237勝を挙げている球界のエースを引き合いに出しての目標設定をし、若手の成長を促した。こうした投げ込みの成果が顕著であったのが、渡辺信義であった。翌(昭和27)年8月10日から9月19日までの、<一カ月あまりで6勝をマーク>(「中国新聞」昭和35年2月8日)という快挙につながる。近代的な科学トレーニングが確立されていない時期に、ボールを多く投げるという反復練習をこなし、技術的なコツを得ていくのだ。これらが精神面の成長を育み、プロフェッショナルな投手へと飛躍させていった。

 

 無論、資金に乏しいカープとあって、無名の投手を育てあげることしかできなかった故、その現実に即した育成手法であったとも言えよう。これは現在の“育てて勝つ”というカープのスタイルにつながっていることは明解だ。

 

プロ選手の統一契約書が可決

 カープ選手らにとって幾たびか、チームの危機にさらされてきた。この時期は存続への危機から解放されたかに見えた。しかしながら、安堵の時間も長くは続かなかった。

 プロ野球が、セ・パ2リーグに分立する際、チーム数が1リーグ8チームから2リーグ15チームに増えた。チーム数がおおよそ2倍になれば、選手需要も自ずと2倍になる。選手の引き抜きや、二重契約などが横行し、度々新聞紙上を賑わせた。

 

 これではいかんと、日本のプロ野球界は動き出す。統一契約書による選手契約である。

<両リーグ統一契約書を可決>(「読売新聞」昭和26年11月25日)

 それまで約3カ月に渡り、審議は難航してきたが、両リーグ会長、コミッショナー、両リーグ経営者、選手の委員らが出席し合意に至った。そして11月24日、正式に可決された。

 

 プロ野球選手は個人事業主であり、それぞれの球団と、選手個々が契約することには変わりはないが、それぞれ書面で契約を行っていれば、二重契約などのトラブルにつながりかねない。これらを防止し、統一された書式で、適正な選手契約がなされることで、円滑なプロ野球の運営を図ろうというのである。

 

 さらに、これらに続くものとして、この年のセ・リーグで自由契約となった選手のリストを作成し、球団間でのトレードを円滑にさせる動きもあった。

<セ・リーグでは六日午後九時から熱海、大野屋旅館で同リーグ初のオーナー、監督合同選手選択会議を開き各球団から来年度契約を予定しない選手のリストを公開>(「読売新聞」昭和26年12月8日)

 

 次年度に向けて、契約されない選手リストを公開することで、選手のトレードを適正に行なおうとしたのである。

<この会議の目的は選手の将来を考える一方、その選択を下位球団優先としてプロ興行の価値を高めようというもので、メジャーリーグ十六球団もやっている>(「中国新聞」昭和26年12月13日)と報道された。こうしたトレード選手が選択会議によってリストアップされた中で、カープは後に、三代目の監督に就任することになる門前真佐人、さらに、4番を打つことにもなる大沢清らを手にしたのである。この時すでに、門前34歳、大沢35歳であった。選手寿命が短かった当時、選手としてのピークを過ぎたとされる両名を、果敢に獲得した。彼らはカープの最高の戦力となった。

 

エースの爆弾声明

 プロ野球選手の個人契約の概念がより明解に整備された選手リストや統一契約書であるが、この統一契約書の規定を逆手にとったカープの長谷川の爆弾声明が飛び出す。昭和26年12月25日、長谷川が出した声明とはこうだ。

<「統一契約書第三十条を広島カープが履行せず、私は自由選手となったので、意中の球団へいく」>(「中国新聞」広島カープ十年史・昭和35年1月25日)

 

 では、この統一契約書の詳細についてであるが、<球団は12月15日または、その以前に新しい契約書を確実な方法で選手に送達して、明年度の契約を当選手に申し込むことになっている>(同前)というものだ。

 

 ところがである――。この年、統一契約書の規定が決まったばかりとあって、実際に印刷が完了したのが、12月11日だったため、期日まで直前であり、選手らの手に届けられたのは遅れた。

<印刷が完了したのが、十二月十一日(パ・リーグは十八日)で諸種の手続きを経て、それぞれの選手に送達されたのは、十二月十五日以後となってしまったわけだ>(同前)

 

 結果、期日に間に合わなかった。ただし、石本秀一監督はこうした不測の事態にも対応できるように事前策として12月9日、東京のカープ宿舎朝陽館において、長谷川の給料について話し合っていた。

<カープは長谷川選手を必要とする旨、直接意思表示を行い、年末に正式契約をすることにして別れた>(同前)

 

 これに従い、統一契約書の有無にかかわらず、意思表示が守られれば、なんら問題がなかったのである。しかしながら、長谷川は意中の球団へ行くと爆弾声明を発表した。

 この長谷川の意識の変化の裏には、さまざまな駆け引きがなされ、彼を獲得しようとする球団の思惑もあった。この後、長谷川は名古屋軍にかくまわれ、カープは一切手が出せないという状況に陥るのである。

 

 さあ、長谷川の運命はいかに――。カープの存続の危機から脱したのも束の間であり、再び危機に陥れた長谷川引き抜き事件は、どう展開し、その顛末を迎えるのか、発生から72年となる中で、その後の証言と文献調査を含めて、諸説をすべて記してみるとする。次回の考古学に、ご期待あれ。

 

【参考文献】

「中国新聞」(昭和26年12月15日)、「中国新聞」広島カープ十年史(昭和35年1月25日、2月8日)、「読売新聞」(昭和26年11月25日、12月8日)

 


西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーのフリーライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)


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