カープ創設2年目の昭和26年のシーズン終盤、最下位脱出にわずかながら望みがないわけではなかった。昭和26年10月6日の「中国新聞」はその一縷の望みを託してこう伝えている。

<六位大洋とのゲーム差は三・五ゲームで(大洋が)残る神(阪神)、名(中日)との五試合を全部失い、広島がきょうあすの地元三試合に全勝できれば、‶悲願のテール脱出〟もかなう>(「中国新聞」昭和26年10月6日)

 

 いかにテールエンド(最下位)を脱出させたいと願ったものかが伝わるが、最下位争いをする大洋ホエールズが5連敗し、カープの3連勝が条件ということであれば、おおよそ傍目には、難しい条件といえた。

 

 こうした勝負に対する見方、もし、カープが全勝したら、もし相手チームが全敗したら、などという発想は、この頃からあった。カープファンやカープ報道に携わる人たちは、やはり何ごともカープを中心に考えている。チーム創設時には、親会社がないことから、県民市民だけでなく、さらに報道の記者らからも、カープへの、ごひいき精神によって、支えられてきたものであった。

 

 記事掲載当日の6日の岡山県倉敷で、松竹ロビンスとの試合が行われた。記事のプレッシャーがあったかどうかは定かではないが、初回から3イニング連続で3点を入れられ、打線で圧倒された。結局、3並びのトリプルスコアの3対9で試合終了。のっけからつまずき、最下位脱出はこの時点で夢と散った。

 

 だが、この試合、石本秀一監督の継投策によって、4回以降は松竹に追加点を許していない。このことは来年に向けた光明といえよう。3番手投手として、渡辺信義が登板している。2カ月前までは県庁マンであった軟式あがり。当時、水爆打線とまでいわれた松竹の打線をピシャリと抑えていることは特筆されてもよかろう。これは石本監督の巧みな継投策や、例え勝ち星を落とす試合であっても、カープの投手陣の育成も同時に行われているのがうかがえる。

 

長谷川と小林の因縁

 カープ2年目も、残すところあと2試合となった。10月7日、第1試合・国鉄スワローズ戦と、第2試合・松竹戦という変則ダブルヘッダーで行われた。第1試合は広島先発の杉浦竜太郎の球威がなく、国鉄打線に開始早々からつかまった。3回までで4点を失い、主導権を握られてしまった。その後、カープが追い上げるものの、国鉄はエース金田正一をリリーフ登板させ、3対4でカープは敗れた。

 

 この年5位と低迷した国鉄に敗れた後で開催された松竹戦。カープは先発にエース長谷川良平を起用した。打線は初回から松竹の小林恒夫の立ち上がりを攻めたて、3番の岩本章のツーランホームランで2点を先制した。その直後には、松竹のエラーもあって、1点を加え、初回で3対0とファンを喜ばせた。

 

 最終戦を勝って有終の美をと願ったのも、つかの間、松竹に追い上げられる。当初はエース長谷川を打ちあぐねた松竹打線が、5回表に7番の木村俊一がライト線へ三塁打を放った。長谷川はそこから連打されて、カープは2点を失った。

 このまま、逃げ切りたいところであったが、7回表、松竹の投手・小林にライトスタンドへホームランを浴びた。3対3の同点で試合は振り出しに戻された――。

 

 その後、9回表、長谷川は松竹打線に攻め立てられ、1死満塁と大ピンチを迎えたが、4番の荒川昇治をファーストゴロに打ち取り、続く5番の三村勲をセカンドゴロに仕留めて踏ん張った。その裏のカープは得点できず延長戦にもつれこむ。その後もよく耐えたエース長谷川。最後のピンチは延長11回、小林の放った打球が、左中間の深い所に飛んだ。これをレフトの岩本章が背走して、なんとかキャッチ。この日バッティングでも、当たっていた投手小林を苦心の末に押さえたのである。

 

 やがて、瀬戸内の長い日も沈み、あたりが暗くなったことから、日没でゲームセットとなった。

 

 実は、この2人、小林と長谷川には、後に大きな因縁が生まれるのであった。試合後の昭和26年オフシーズンに発生する、エース長谷川引き抜き事件である。名古屋ドラゴンズが長谷川を引き抜くかわりに、カープから出した条件がある。それは名古屋が、松竹から小林を引き抜き、カープに入団させるのならば長谷川を名古屋へと移籍させてもいいというのだ。

 

 エース長谷川に見合うだけの投手——。それがこの日投げ合った小林の評価だったのだ。だが、この時点では、誰も知ることのない事件である。カープのシーズン最終戦は、小林にとってナイスピッチングを披露し、さらに、この年はよく打っており、バッティングでもたぐい稀なる才能を発揮した日であった。

 

日本時代の社会背景

 カープ2年目のシーズンは終わった。32勝64敗3分けで、勝率3割3分3厘と7チーム中7位であった。しかし悔しい最下位ではなかった。むしろ、勝率3割を死守して終えることができたことは称賛に値すると言っていいだろう。

 

 このシーズン、セントラル・リーグ連盟により、カープだけ開幕させてもらえない不遇を味わい、年間99試合しか組んでもらえなかったという、“カープ潰し”とも言われかねない苦境におかれながらも、耐えに耐えてきたのである。

 エース長谷川の貢献も見逃すことはできまい。チームの勝ち星の32勝のうち半分超の17勝を挙げていたからだ。

 

 さて、ここで長谷川個人の境遇を、この時代の日本社会の背景から考えてみる。日本が民主国家として、独立し始め、そこで抱えた課題の一つとされたのが、「二、三男の失業対策」である。これは稲作を中心とした農業によって、家計を成していく日本にあって、深刻な事態であった。傍らではこんな表現が用いられている。

<長男でない二、三男以下のいわゆる冷や飯階級の生活維持が、大きな社会問題となってくる>(「中国新聞」昭和26年10月3日)

 

 戦後、独立国家として、歩み始めた日本であるが、各家庭においても、長男は跡取りとして大事にしていかなければならず、二男、三男はその対象ではなかった。

 これはカープのエース長谷川良平の実家においても同様であった。女性ばかりの家族で、唯一の男性であり、長男でもあった。実家は愛知県半田市で、雑貨屋を営んでいた。

 

 長谷川はカープ入団年に、父を亡くすという不幸に見舞われたため、母1人と姉1人とで、その雑貨屋を支えていた。

<雑貨屋は長谷川がもし生活に困った時のためにと、母の気持ちひとつで残されていた>

<跡取りでもあるため、母を一人にはできない、なるべく郷里に帰りたいという意向があったのだ>(共に『カープ 苦難を乗り越えた男たちの軌跡』駒沢悟監修・松永郁子著、宝島社)

 

 こうした愛知県半田市への望郷の念を持ちながらも、長谷川は孤軍奮闘し、カープ投手陣の屋台骨として頑張ってきた2年間であった。長谷川の生まれ故郷には、名古屋ドラゴンズという球団がある。いつ何時、長谷川の引き抜き事件が起こっても不思議はなかった。この事件については、後の編で詳細に記すとする。

 

 さて、カープ2年目のシーズンは終わった。なんとか“3割規定”(※)に屈することなく、耐えてみせた。しかし、これで2年目のシーズンが終らないのが、石本率いるカープの特徴である。ここで石本は、ある難題を若手選手らにぶつけるのである。おおよそ野球しか経験してこなかった選手らにしてみれば、大変な難行苦行でもあったろう。次回のカープの考古学でお届けする。乞うご期待。

 

(※)勝率3割未満の球団はセントラル・リーグ連盟の理事会で処遇を決めるという規定

 

【参考文献】

「中国新聞」(昭和26年10月3日、6日、7日、8日)

『カープ 苦難を乗り越えた男たちの軌跡』駒沢悟監修・松永郁子著(宝島社)


西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーのフリーライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)


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