☆再掲☆糸川亮太(立正大学硬式野球部/愛媛県四国中央市出身)第3回「変化球投手へのモデルチェンジ」
川之江ボーイズの新チームでエースとキャプテンを務めた糸川亮太は、中学3年の夏に愛媛県選抜に選ばれるなど県内でも名を知られる存在になっていた。
(2020年2月の原稿を再掲載しています)
周囲の勧めもあり、進学先は県立川之江高校となった。甲子園は春夏合わせて6度出場の県内の強豪だ。10年以上、甲子園出場から離れていたものの、春はベスト8、夏はベスト4が最高成績。そして糸川の兄2人も通った高校だった。
糸川3兄弟の末っ子の存在は、野球部の友近拓也監督(現・松山東監督)の目にも留まっていた。
「地元の川之江ボーイズで彼はプレーしていましたし、お兄ちゃん2人も川之江高校野球部で僕が教えていたことがあった。糸川は中学の中では球も速かったですし、変化球もコントロールできていたので、かなり高いレベルにある選手だなと思っていました。川之江ボーイズの中心選手で実力も光るものがあった。“ぜひ川之江高校にきてほしいな”という気持ちはありました」
期待されて入部しただけあり、1年の夏からベンチ入りを果たし、登板機会にも恵まれた。しかし、最初の登板で抑えられなかったこともあり、糸川自身が手応えを掴むまでには至らなかった。高校2年間はもがき苦しんでいた期間とも言える。
再び友近監督の証言。
「2年生の夏の大会くらいまでは、あまりうまくいってなかったんです。中学生の時には通用していたストレートも、狙われたら痛打されるようになりました。変化球もそれほど威力がなかった。打たれたらカッカしてしまい、自分をコントロールできないというような失敗が続いていたんです」
これまでの輝きはみるみる失い始めていた。だが糸川は消えていく存在にはならなかった。
ターニングポイントは2年の夏だ。愛媛県大会では控えピッチャーという位置付けだった。3回戦で巡ってきた先発のチャンスも生かせなかった。チームは準々決勝で敗れ、甲子園出場はならなかった。
3年生が引退し、新チームが動き出したある日、友近監督は糸川に「変化球ピッチャーになれ」と告げた。それまで糸川は闘志を前面に出し、強く腕を振るピッチングだった。力でバッターを押し込めるようなスタイル。真っすぐ主体で生きてきたピッチャーからすれば、変化球投手への転向指令はプライドを傷付けられたことだろう。
糸川本人も「スタイルで言えば、これまでとは真逆になるので、最初は“マジか”と思いました。でも結果を出していなかったので『分かりました』と受け入れました」と振り返っている。
友近監督はその意図を「中学生の時のスタイルでやってきて、通用しなかった。“何か思い切って変えないといけない”という思いがありました」と説明する。変化球とコントロールを重視したピッチングに変える。これまでから180度近い方向転換と言っていいようなものだ。コーチからはカットボールなど新たな球種を習った。
膨らむ期待と不安
変えたのはピッチングスタイルだけではない。現在のセットポジションから投げるフォームも、この頃固まった。ワインドアップから投げ下ろすフォームからの変更だ。友近監督は「劇的な変化」だったという。
「全力投球ではなく、コントロールを重視し、打たせて取る。ストレートの割合もかなり減りました。カットボールがすごく良かった。左バッターの膝元、右バッターのアウトコースにきっちりコントロールできた。カットでファウルを狙って打たせるなど、ストライクを取れるようになりました。それに以前よりも力を抜いて投げることで、逆にストレートのキレも良くなった。球速以上のものになったと思います」
友近監督によれば、夏の新人戦4、5試合に投げてフォアボールは大幅に減ったという。糸川本人の実感はどうだったのか。
「すぐにパーンと変わって、ピッチングが楽になりました。どんどんストライクが取れるので、楽に抑えられるようになったんです」
新エースに生まれ変わった糸川の活躍もあって、川之江は春の愛媛県大会で優勝を収めた。チームは四国大会で準優勝。夏の県大会で第1シードの権利を得た。久々の甲子園へ――。周囲の期待も膨らむばかりだった。
しかし、糸川は不安を抱えたまま、夏を迎えていた。実は春の県大会後、右ヒジに違和感を覚えた。5月の四国大会を欠場。ノースロー調整で回復を待ったものの、6月中旬まで投げることはできなかった。
本人の回想――。
「ヒジを痛め、投げられなくて不安を持ったまま夏の大会に入ったんです。全然練習を積めていないのにプレッシャーがすごかった。“過大評価されている”と、ずっと感じていました」
初戦(2回戦)の相手は春季大会決勝で対戦した松山聖陵だ。初回、糸川の不安は投げるボールにも伝わったのか、4連続四球を与えた。立ち上がりに押し出しを含む3失点。糸川は2回も立ち直れぬまま、マウンドを降りた。
「丁寧にいき過ぎて、ストライクからボールになる変化球をほとんど見送られました」
松山聖陵のエースは卒業後、プロ野球の広島に入団するアドゥワ誠だった。味方打線は1点を返したが、196cmの長身から繰り出される威力のあるボールに抑えられた。3安打完投で1-5。春の愛媛王者・川之江は初戦で敗れることとなった。
糸川が目標としていた甲子園の舞台に立つことは、かなわなかった。
「レベルの高いところで勝負したい。4年やってダメだったら野球を辞める気持ちで挑みたかったんです」
高校卒業の新天地は、関東を選んだ。生まれ育った四国を離れ、“戦国東都”と呼ばれる大学リーグでプレーすることを決断したのだった。
(最終回につづく)
<糸川亮太(いとがわ・りょうた)プロフィール>
1998年4月30日、愛媛県四国中央市生まれ。小学1年で野球を始める。妻鳥ファイターズ-川之江ボーイズ-川之江高校-立正大学。川之江高校時代は甲子園出場こそかなわなかったものの、エースとして3年時の春季愛媛県大会優勝、四国大会準優勝に貢献した。立正大進学後は2年秋に頭角を現し、東都大学1部の18季ぶり優勝、神宮大会の9年ぶりの優勝に導いた。冬には侍ジャパン大学代表候補合宿に参加した。MAX145kmのストレート、スライダー、カットボール、カーブ、チェンジアップ、シンカーを駆使する。身長172cm、体重76kg。右投げ右打ち。背番号17。
(文・写真/杉浦泰介)