今日1月31日は、ジャイアント馬場(本名・馬場正平)の25回目の命日だ。享年61。本日、都内では故人を偲ぶトークショーが催される。

 

 ケガによりプロ野球を追われた馬場が、力道山が興した日本プロレスに身を投じ、レスラーとしてもプロモーターとしても成功を収める物語は、プロレスファン以外にも広く知られている。

 

 しかし、入門以前の馬場とプロレスの接点については、おぼろげである。それについて馬場は<フーッと人形町の力道山道場へ行っていた>(自著『たまにはオレもエンターテイナー』かんき出版)としか述べていない。力道山との間を取り持ったと言われる人物については、生前、本人が否定していた。運命の糸にでも導かれたのか。

 

 謎解きをする前に、短命に終わった馬場のプロ野球人生をおさらいしておく。新潟県の三条実業高(現・新潟県央工高)を2年で中退し、54年10月に巨人に入団した馬場は、2軍では活躍したがチャンスに恵まれず、1軍では5年間で3試合にしか登板していない。通算0勝1敗。わずか7イニングだが1.29という防御率が光る。売り物は制球力で、四死球はひとつも与えていない。

 

 馬場がプロで最初に対戦した打者は阪神の吉田義男。40センチ以上の身長差があり、さぞ投げにくかったはずだが、戸惑ったのは吉田の方だった。本人から聞いた話。「馬場はボールが速い上に重かった。しかも角度があり、おまけにコントロールもいいときている。僕は真っすぐを詰まらされて二塁ゴロでした」

 

 59年オフに巨人を解雇された馬場は、60年1月、大洋の明石キャンプに参加する。入団の内定を得て、さあ、これからという時に旅館の風呂場で転倒し、左ひじに大ケガを負う。これが原因で左手の中指と薬指が屈曲し、グラブに手が入らなくなった。内定は取り消され、22歳は路頭に迷った。

 

 馬場が人形町に向かうのは、その2カ月後である。力道山との接点について、貴重な証言をしてくれたのが馬場の巨人時代の後輩・中村稔だ。「58年のオフ、巨人は球団創設25周年の集いを新宿のコマ劇場で開いた。力道山も来ていて、馬場さんに“オマエ、早く野球をやめて、オレのところに来い!”と」。その声が馬場の耳には残っていたのではないか。

 

 本人によると、一時は故郷に戻り家業の八百屋を継ぐことも考えていた。「でも、オレの大きな手でカボチャを持ってもジャガイモにしか見えないしなぁ」。ホテル内の喫茶室。馬場はそう言いながら親指と人指し指でカップの取っ手をつまみ、ゆっくりとコーヒーを口に運んだ。私の目にはコーヒーカップがミルクピッチャーに見えた。

 

 回り道のように見えて、畢竟、馬場にとってプロレスラーは天職だったのではないか。明石の風呂場で投手生命を絶たれなければ“東洋の巨人”は誕生していなかった。これはもう、天の差配としか思えない。

 

<この原稿は24年1月31日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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