巨人のV9は1965年から73年にかけてだ。内野のレギュラーは一塁・王貞治、二塁・土井正三、三塁・長嶋茂雄、ショート黒江透修。背番号は順に「1」「6」「3」「5」。この中で、最も後発のレギュラーは黒江で、入団当初は「67」を付けていたが、入団5年目の68年に「5」に格上げとなった。

 

 少年の頃は巨人ファンだった。生まれ故郷の愛媛に、民放は日本テレビ系列の1局しかなく、地元の小学生は、ほぼ全員がYGマークの野球帽で通学した。中学の修学旅行で京都を訪れ、子どもたちが阪神の帽子をかぶっているのを見るまで、私は小学生の制帽=巨人の帽子だと思っていた。

 

 たまに、まちの銭湯に行くと、のれんをくぐるなり、下駄箱の「5」を目がけて走った。本当は「1」か「3」の番号札が欲しかったが、そこはいつも埋まっていた。高田繫の「8」と柴田勲の「7」(70年に「12」から変更)も競争率が高かった。その意味で「5」は比較的狙い目だった。それがきっかけで黒江が好きになった。

 

 三つ子の魂百まで――とはよく言ったもので、今でも巨人の「5」が気になる。今季からは門脇誠が付けている。球団史上最高のショートである坂本勇人からポジションを奪った成長株だ。彼は1年目の昨季「35」を背負っていた。2年目での「ひとケタ」は球団側の期待の表れだろう。

 

 では長い巨人の歴史の中で、「5」はどんな意味を持つのか。少なくとも黒江が背負うようになって以降は“正遊撃手”の表徴だ。強肩の河埜和正、シュアな打撃が売り物の岡崎郁が後に続いた。

 

 この3人には共通点がある。いずれも生え抜きで、しかも変更組だ。先述したように黒江は「67」、河埜は「61」「29」、岡崎も入団当初は「45」と大きめだった。いわば“与えられた番号”ではなく“勝ち取った番号”というのがミソである。

 

 その一方で、「5」の重圧に苛まれた選手もいた。78年に超高校級ショートとして入団した鈴木康友だ。天理高時代は甲子園に4度出場し、卒業後は早大への進学が「内定」していた。ところが現役を退き、監督に就任したばかりの長嶋茂雄に「キミはオレの弟のようだ」と口説かれ、天にも昇る気持ちで長嶋巨人の一員となる。ちなみにドラフト制導入以降、巨人が高卒新人にひとケタの番号を与えたのは、後にも先にも彼だけだ。

 

 だが“ミスターの弟”には、キャンプで厳しい洗礼が待っていた。先輩たちの背中への視線が刺すように痛い。ノックでゴロをポロリとやろうものなら、すかさずヤジが飛んできた。「オイ新人、背番号も軽いけどプレーも軽いのォ」。これは堪えた。ジャンパーを脱ぐのをためらうようになった。翌年「43」に格下げに。「重圧からの解放」が、その後の成長につながったのだ。

 

 背番号「5」を巡る悲喜こもごもの物語。背番号が選手を成長させ、選手が背番号の価値を高める。継承者たる門脇には「5」の系譜に、太字でその名を刻んでもらいたい。

 

<この原稿は24年2月14日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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