ある大手出版社の編集者から、翻訳本の解説文を依頼されたのは2003年の秋のことだ。本のタイトルは『マネー・ボール』。主人公はビリー・ビーンというMLBアスレチックスのGMで、セイバーメトリクスと呼ばれる統計学的手法を駆使し、低迷していたチームを復活させるまでのプロセスと、その奮闘ぶりが描かれていた。

 

 著者はウォール街の内幕を描いた『ライアーズ・ポーカー』などで知られる気鋭のジャーナリスト、マイケル・ルイス。彼は当時のMLBを「プロ野球をやる人々の王国と、プロ野球について考える人々の共和国」の対立と位置付け、ビーンを共和国側のリーダーと見なしていた。

 

 前もって原著に目を通していた編集者が、何気なく口にした言葉が耳に残った。「ビーンはただの野球人ではない。あのスタンフォードを蹴るなんて信じられない。余程野球に自信があったか、あるいは特別な事情があったか…」

 

 ビーンは高校時代、野球とアメフトの“二刀流”で名を馳せた。より勧誘に熱心だったのはアメフト部の方で、当時の花形選手ジョン・エルウェイの後釜として育成するという意向を家族側に示した。無論ビーンにも異存はない。

 

 だがメッツからドラフト1巡目指名を受け、ビーンの周辺はにわかに騒々しくなる。両親が契約金を受け取って、後戻りできなくなった。直後に大学側から入学許可取り消しの手紙が届き、スタンフォード大との縁は切れた。

 

 それでも「スタンフォードを蹴った」ことが“知的武勇伝”になるのは、同大が「東のハーバード、西のスタンフォード」と呼ばれる米国、いや世界屈指の難関大だからに他ならない。キャリアの大半をマイナーリーグで過ごしたビーンに後悔はなかったのだろうか。

 

 日本にも、スタンフォード大から誘われたアスリートがいる。プロゴルファーの福嶋浩子だ。父は大洋で活躍した強肩捕手の福嶋久晃。姉はプロゴルファーの晃子。スポーツ一家の次女は全米ジュニア選手権で活躍し、スタンフォード大のゴルフ部監督の目に留まる。代理人を通じて入学の打診を受けるが、彼女は高校卒業後、語学学校に2年通い、サンディエゴ州立大に進んだ。スタンフォード大に入学していたら、タイガー・ウッズの後輩になっていた。

 

 高校通算140本塁打の佐々木麟太郎(岩手・花巻東)の進学先として、西海岸きっての名門大が注目を集めている。MLB志望の麟太郎は在学中に2度、ドラフト指名を受けるチャンスがある。

 

 アスリートにとって旬の時期は長くない。中には学業を一旦中断してMLBに身を投じる者もいる。近年の傾向として、契約書には将来の大学復帰、その際の授業料負担が書き込まれるケースが少なくないと聞く。さて麟太郎はどんな道を選ぶのか。“文武二刀流”の挑戦が始まる。

 

<この原稿は24年2月21日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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