来月に高校野球・春のセンバツが始まります。球児たちがどんなプレーを見せてくれるか今から楽しみです。今月は私が出場した中でも印象に残っている1977年春のセンバツについて論じましょう。

 

 77年のセンバツ、近畿ナンバーワンで天理高校が勝ち上がり「優勝候補」と言われていました。1回戦は作新学院と対戦。2対5、7回表、一塁にランナーを置いて私に打席が回ってきました。夢中になり過ぎていて、何球目か覚えていないのですが、真ん中やや外のストレートでした。「来たっ!」と思い切りボールを叩きました。低空弾丸ライナーはセンターを抜ける! と思い懸命に走りました。

 

 本気のスプリントでセカンド手前、バックスクリーン右に打球が突き刺さりました。「よく、あれ(弾丸ライナー)で入ったな」と打った本人が驚きました。スタンドでアルバイトをしていた友人も「あんな低空弾道のホームランは見たことないわ」と後に話してくれました。

 

 あの一戦、あの一発

 

 不思議とあの時は手に感触はなかった。センターを抜ける当たりだと思い込んでいたから、全力ダッシュ。ホームランは唯一、ダイヤモンドを回るときに球場の空間と時間を独り占めできる贅沢な瞬間です。半分くらいダッシュしちゃっていたから味わう時間は少し短縮されましたが(笑)それでも素敵な時間を感じられました。

 

 実は、この一発をテレビ中継で見てくれていた長嶋茂雄さんが私を獲得したい、と動いてくれたのでした。結果的に延長戦で逆転し、次にコマを進めました。私自身、4打数4安打と大当たり。4打席目、私の名前がコールされると学校関係者は全くいない内野スタンドから拍手が沸き起こった。テレビ実況は「内野スタンドから拍手を引き出す選手は久しぶりです」と。目の肥えた甲子園ファンが認めてくれたのは嬉しかったです。

 

 準々決勝では山沖之彦投手率いる中村高校(高知)と対戦しました。中村高校は部員が12人しかいなかったこともあり「二十四の瞳」と報じられていた。私はこの試合でカルチャーショックにも似たようなものを受けました。

 

 田頭の「ごめんよ」

 

 天理の守備時、相手キャプテン・田頭克文がセカンドにランナーとしてきました。ランナーなんだから、当然のようにリードオフを取る。土のグラウンドに足跡がつく。ショートを守る私はグラウンドをスパイクで均していました。すると田頭が「あ、ごめんよ」と言って自分の手で土を均した。私はこれにビックリしたんです。

 

 近畿圏の競合校同士と対戦する際はセカンドランナーが牽制に入ったら、ショートに土をわざとかけたりしていた。それが当たり前の環境で勝負していたから、田頭の紳士的な行動がかなり印象に残りました。

 

 今度は山沖がセカンドランナーとして塁上に来ました。ずっと投げっぱなしだから頬は痩せこけていた。投げ続けている疲労と191センチと長身のため動きが緩慢でした。こちらのピッチャーとピックオフ(走者がリードしている時、投手や野手・捕手が示し合わせてアウトを狙う)で、完全に山沖の逆を突いた。

 

 タックルするように思い切りタッチに行けばアウトにできる――。

 

 強烈なタッチをしていれば

 

 タッチに行こうと思ったその瞬間、前の田頭のやさしさが脳裏をよぎった。影響を受けた私は軽くしかタッチに行けず、セーフ。完全に逆をついた牽制は失敗に終わりました。この後、ポテンヒットなどが続き、山沖はホーム生還。天理は準々決勝で涙を飲む結果となりました。

 

 あれが関西の強豪校が相手だったら……おそらく相手ランナーの「わき腹、折れるんちゃうか?」くらいの強さでタッチに行けていたと思います。中村高校にはいけなかった。それほど、田頭の「ごめんよ」と言いながら、自分の足跡を手で均す姿が頭とまぶたの裏に焼き付いていたのです。負けたのは自分のせいだと感じ、しばらくこの試合の話はできなかった。

 

 その23年後、高知新聞の対談企画で田頭と会いました。ビールを飲みながら「こんな野球があるんか、と驚いた。あれで負けたようなモン」と苦笑まじりに彼にやっとに告げられました。

 

 あそこでやさしさなど、よぎりもせず強烈なタックルにいける鈴木康友だったら――。もしかしたらもっとプロで成功したのかもしれない。しかし一方、あそこで田頭のやさしさに影響を受け、軽いタッチをした自分も嫌いじゃないんです。

 

 そのやさしさが、指導者として私を高みに連れていってくれたのだと自信を持てているのだから。

 

<鈴木康友(すずき・やすとも)プロフィール>
1959年7月6日、奈良県出身。天理高では大型ショートとして鳴らし甲子園に4度出場。早稲田大学への進学が内定していたが、77年秋のドラフトで巨人が5位指名。長嶋茂雄監督(当時)が直接、説得に乗り出し、その熱意に打たれてプロ入りを決意。5年目の82年から一軍に定着し、内野のユーティリティプレーヤーとして活躍。その後、西武、中日に移籍し、90年シーズン途中に再び西武へ。92年に現役引退。その後、西武、巨人、オリックスのコーチに就任。05年より茨城ゴールデンゴールズでコーチ、07年、BCリーグ・富山の初代監督を務めた。10年~11年は埼玉西武、12年~14年は東北楽天、15年~16年は福岡ソフトバンクでコーチ。17年、四国アイランドリーグplus徳島の野手コーチを務め、独立リーグ日本一に輝いた。同年夏、血液の難病・骨髄異形成症候群と診断され、徳島を退団後に治療に専念。臍帯血移植などを受け、経過も良好。18年秋に医師から仕事の再開を許可された。18年10月から立教新座高(埼玉)の野球部臨時コーチを務める。NPBでは選手、コーチとしてリーグ優勝14回、日本一に7度輝いている。19年6月に開始したTwitter(@Yasutomo_76)も絶賛つぶやき中。2021年4月、東京五輪2020の聖火ランナー(奈良県)を務め、無事"完走"を果たした。


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