前代未聞、言語道断というしかない。五輪出場をかけた一大決戦の会場が決まらない。平壌で戦う心づもりをしていたら大連かも、という情報が流れ、開催まで5日を切った段階でジッダに決まった。

 

「あってはならないことだと思う」と熊谷が憤慨したのは当然。なでしこのために現地での応援を、と考えていたファンの存在などは、完全に無視されている。仮に男子で同じような事態が起きれば、国際的な大問題に発展したのは間違いない。責任の所在がFIFA、AFC、IOC、いずれの組織にあるかはともかくとして、主催する側に女子のサッカーを軽視する姿勢が隠れていなければ起きるはずのないことが、起きてしまった。

 

 時差や気温への対策など、本来ならばできていたはずのことがまるでできなくなってしまった選手や現場の憤りは、察するに余りある。まだ日本に根付いたとは言い難い女子サッカーの場合、草の根を広げている上で最も効果的なのは、世界大会での活躍である。自分だけでなく、自分が愛する競技の未来までかけた戦いの場が、わけのわからない事情で二転三転したのだ。池田監督の「憤りというエネルギーを相手と戦うエネルギーに使おう」という言葉も、十分に理解できる。

 

 ただ、杞憂というか過ぎたる老婆心というか、ちょっと心配なところもある。

 

 起きてしまったアクシデントを、戦う力に変えようとする発想は正しい。13年前、W杯に臨んだなでしこたちが東日本大震災への思いを胸に戦ったことは、よく知られている。

 

 だが、視点を反転させてみれば、人生をかけた戦いを粗末に扱われ、憤慨しているのは日本人だけではない、とも思えてくる。

 

 大観衆の声援を背に受け、慣れ親しんだグラウンドで戦う機会を、北朝鮮の選手たちは奪われた。ならばせめて自国に近く、声援も期待できそうな大連でという希望も退けられた。サウジアラビアでの戦いとなれば、北朝鮮にとってのアドバンテージはまったくない。当然、彼女たちは「なぜ?」との疑問を抱いただろうし、事実かどうかは関係なく、「日本の策略だ」と思い込む者も現れるだろう。

 

 燃え上がらない、はずがない。

 

 アジア大会での戦いを見る限り、女子の北朝鮮は洗練された好チームだった。正直、「よくぞ対外試合も組めない中でこれほどのチームを」と感心させられた。日本との間に横たわる力量差は、男子サッカーの日本とベトナム、あるいはイラクとの間に存在したものよりはるかに小さい、とわたしは見る。

 

 つまり、相当に手強い。

 

 そんな相手と戦う際、まず避けなければならないのは相手を見誤ること、である。わたしが怖いのは、自分たちは理不尽な扱いを受けた、この怒りを北朝鮮にぶつけてやる……と意気込んで試合に入っていたら、相手の闘志の方がすさまじくて面食らう、といった展開である。なまじアジア大会での対戦を経験し、彼女たちが男子と違ってバイオレンスではなくインテリジェンスやテクニックを武器にしたチームだという認識があろうはずなだけに、尚更である。

 

 なでしこたちが憤るのは理解できるし仕方のないこと。ただ、今回の戦いに関して、怒りをぶつけあうのは得策ではない気がする。エネルギーを変えるのであれば、いまなおサッカー観戦など到底かなわない状況に置かれた地域への思いの方が、ふさわしい。

 

<この原稿は24年2月22日付「スポ-ツニッポン」に掲載されています>


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