今月18日に開幕するセンバツは、ロースコアのゲームが増えると見られている。高野連は2年前、打球による受傷事故防止を目的に“低反発バット”の導入を決めた。移行期間を経て今春から新基準の金属バットに統一される。

 

 新バットについては、「木製バットの感覚に近い」という感想が多く聞かれる。ならば、最初から木製でいいのではないか、との声も。実際、高野連は木製を禁じてはいない。しかし、木製の場合、破損のリスクが金属よりも高く、大きな経済的負担を伴う。

 

 他の競技に比べ、野球は用具代がかさむ。捕手ならミットにレガース、プロテクター……。硬式球は1ダース約7000円。これにバット。木製なら1本1万円はくだらない。練習のたびにポキポキやられたら、親はたまったものじゃない。日経平均株価が4万円台に乗っても実質賃金は減り続け、家計は守勢の色を強める。そんな中での低反発バット導入は時宜にかなったものと言える。

 

 センバツで金属バットが初お目見えしたのは、高知が初優勝を果たした1975年である。73年に発生したオイルショックは“狂乱物価”を招き、家計を直撃した。木材の値段も高騰し、木製バットの値段は倍以上にはね上がった。経費削減策の一環として金属バットが導入されたのである。

 

 開幕戦のスコアは16対15。両軍合わせて29安打、3本塁打が飛びかう乱打戦の末に倉敷工(岡山)が中京(現・中京大中京、愛知)に競り勝った。高知対東海大相模(神奈川)の決勝では、高知・杉村繁の球足の速い右中間三塁打が話題になった。敗れた東海大相模の原辰徳は、左中間スタンドに豪快な一発を見舞った。前年、わずか1本だった本塁打は、この年11本にまで増えた。金属バットの破壊力は想像以上だった。

 

 金属バットを武器に、高校野球を変えたのが池田(徳島)だ。82年夏、エース畠山準を擁する池田は、6試合85安打、7本塁打の猛打で頂点に立った。監督の蔦文也は“攻めダルマ”と恐れられた。8番ながら打率4割と打ちまくった木下公司の回想。「蔦先生の指導は“遠くに飛ばせ!”これだけ。ただ、用具にはこだわっていた。僕らが使っていたのはゼット社製のバット。蔦先生は“これが一番反発力がある”と……」

 

 代名詞の“やまびこ打線”のイメージが強過ぎて、忘れてはいないだろうか。実は池田、今から50年前、木製バット最後の年となった74年春の準優勝チームでもある。決勝で報徳学園(兵庫)に惜敗したが、部員11人の“さわやかイレブン”は甲子園に新風を吹き込んだ。

 

 相撲でいえば、舞の海のようなチームだった。1回戦の函館有斗(現・函館大有斗、北海道)戦では、1番の雲本博が本盗を決めた。重盗ありスクイズあり。「弱いチームやから、ああするしかなかった。工夫して勝つのが高校野球のだいご味」。生前、蔦はそう語っていた。“飛ばないバット”ゆえの工夫と知恵、そしてベンチワーク。それが高校野球の本道かもしれない。

 

<この原稿は24年3月6日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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