いつも毅然としておられた。しかし、その振る舞いは決して居丈高ではなかった。古武士のような人だった。しかし頑迷固陋ではなかった。
 手許に1冊のノートがある。表紙には「長沼健メモ」。2日に死去したサッカー協会最高顧問・長沼健氏とのやりとりが綴られている。語録の一部を紹介しよう。

「FWはロマンチストじゃなければいけない。ありもしないことを頭に描き続けていると10回に1回はそうなるんです。そのときこそ腹の底から喜べる」。
 日本代表W杯予選初ゴールは長沼さんによってもたらされた。1954年の韓国戦。雨中での伝説のゴール。日本代表のW杯への挑戦は、あのゴールから始まったと言っても過言ではない。

「行動力、顔、そして見識。協会会長にふさわしいのは誰か。それは川淵(三郎)君と岡野(俊一郎)君ですよ。ところが川淵君の場合、Jリーグ再建という大きな問題を抱えていて、“今はJをどう立ち直らせるかが僕の至上命題。死んでも(チェアマンは)辞めない”と言うんだ。それなら仕方がない。実は僕の頭の中では年齢も考えて一に岡野君、二に川淵君というのがあった。岡野君には国際的な顔がある。2人はね、いわばサッカー界の車の両輪。どちらが欠けても困るんだ」。
 これは会長職を辞する前の発言。後継者への深い愛情と洞察力が手にとるように伝わってきたものだ。

「選定権はあっても任免権はない」。
 こちらは記者会見でのコメントだ。95年11月、加茂周氏の日本代表監督続投が決まった。当時の強化委員会(加藤久委員長)はアーセン・ベンゲルに次いでネルシーニョを推していた。ベンゲルに脈がないと分かった時点で強化委員会は交渉相手をネルシーニョ1本に絞った。ところが幹部会が下した結論は「加茂続投」。

 隣の席に座っていたジャーナリストの富樫洋一さん(故人)が突然、声を張り上げた。
「加茂さんでW杯に行けなかったら会長は責任をとるんですか?」「私が辞めます」。不穏な空気が流れた。
 しばし間を置いて私は訊ねた。「では強化委員会の代表監督に関する権限は?」。そこで返ってきたのが先のセリフである。逃げられた、と舌打ちしたが、同時に「うまいこと言うなァ」と感心もした。修羅場のフェイントだった。
 
 この先、このノートが長沼さんの肉声によって埋められることはない。合掌。

<この原稿は08年6月4日付『スポーツニッポン』に掲載されています>

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