登板した438試合は全てリリーフ。野村克也風に言えば「生涯一救援投手」だ。

 

 主に“左殺し”の中継ぎとして一時代を築いた清川栄治(西武投手育成アドバイザー)が悪性腫瘍のため死去した。62歳だった。

 

「清川が津田恒実のところに旅立っちまったよ」。川口和久のもとに、元同僚の川端順から電話が入ったのは連休明けのことだ。「そうか、早すぎるよな」

 

 84年に大阪商大からドラフト外で広島に入団した清川は、出番を確保するため横手投げに転向した。同じ左腕ということもあり、2学年先輩の川口には、よくアドバイスを求めた。

「キヨ、内角を突け。それがオマエの生きる道だ。ぶつけても、それは次の好投への伏線だと考えればいい」

 

 キャリアのピークは86年から89年にかけて。86年=50試合、防御率2.55。87年=41試合、同2.13。88年=39試合、同2.83。89年=44試合、同2.67。本人は「技巧派」と呼ばれるのを嫌った。「僕は三振の取れる本格派です」。近鉄時代を含む15シーズンの奪三振率は9.27。通算防御率は2.94。見事な成績だ。

 

 清川が日を経ずしてマウンドに上がっていた頃の広島は、リーグ屈指の投手王国。北別府学、大野豊、川口を中心にローテーションが組まれ、抑えは“炎のストッパー”と呼ばれた津田。つなぎ役が右の川端と左の清川。チーム防御率は86年と88年がリーグトップ、87年と89年が2位。

 

 投手陣の中でも、ブルペン組は、特に仲が良かった。遠征先で川端、津田、清川の3人は、よく連れ立って飲みに行った。川端を年長に、学年はそれぞれひとつ違い。気の置けない間柄だった。

 

 しかし、ひとたびユニホームを着ると、皆、顔つきが変わった。ある試合で、幕引きとして登場した津田が打たれ、清川の初白星が消えた。無言で寮に戻った清川は電気を消し、用意してある食事に一切手を付けず、部屋にこもってしまった。心配になった津田は清川の部屋に出向き、涙ながらに謝罪した。その一部始終を見ていた川端の回想。

 

「普段、“僕に勝ち星はいらない”といっていた清川の別の一面を見る思いがした。チームの勝利へのこだわりが、それだけ強かったのかと…」

 

 清川は仲間うちでのカラオケでも、“先発”や“抑え”を避け、自らの役所をわきまえるように宴の途中でマイクを握った。おはこは河島英五の「旅的途上」(旅の途上)。〽たどり着くやら着けぬやら人生旅の途上。甘い声でしみじみと歌い上げた。「まだ人生旅の途上やと、オマエ、そう歌ってたやないか」。嘆くように、川端はつぶやいた。

 

 現役引退後、広島、オリックス、埼玉西武などでコーチを務めた。頭ごなしに命じるのではなく、選手に寄り添った指導に定評があった。川端は「僕らは昭和で育ったのに、彼は令和の時代の指導者だった」と語った。還暦後の旅の続きが見たかった。合掌(敬称略)

 

<この原稿は24年5月15日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


◎バックナンバーはこちらから