Jリーグの日。もしあのときラモス瑠偉が日本を去っていたら
5月15日は「Jリーグの日」である。
1993年の同日、チアホーンが鳴り響く東京・国立競技場において「ヴェルディ川崎―横浜マリノス」のオープニングマッチでJリーグが華々しく開幕してはや31年が経つ。メモリアルデーに合わせて毎年いろんな企画が実施されているが、今年はあの「Jリーグカレー」が復刻版となって15日開催のJ1のゲームで各会場1000個ずつ配布されたという。
少年(まさおくん)がカレーを口にするとラモス瑠偉に変身するというCMまで「2024年度版」として公開された。67歳となったラモスが今回も少年から変身しているが、あのときのまさお少年がパパ役で登場しているのだから、よく買っていた身としては何とも感慨深い。
スーパースターのカズもさることながら、ラモスもまた開幕当時「Jリーグの顔」であったことは言うまでもない。
彼がいたから日本サッカーは成長し、Jリーグは盛り上がった。ヒゲが白くなったCMのラモスを眺めながら、あらためてそう感じないではいられなかった。
彼は一度、日本を去ろうとしていたことがある。
ジョージ与那城に誘われて1977年にブラジルから来日し、新興の読売クラブに入団したのが20歳のとき。慣れない日本での生活やレベルの低い日本サッカーにストレスがあったなか、翌78年1月のJSL2部、日産自動車との一戦で“事件”が起こる。接触プレーで相手が大袈裟に倒れたことに怒り、その選手をピッチで追いかけ回した。この結果、リーグから1年間出場停止というあまりに重い処分を受けた。
当時の話を、彼本人に聞いたことがある。
「ブラジルでは理不尽なことをされたらケンカ腰になるのは当たり前。でも私は手を出したわけではないんです。罰金5万円、出場停止2試合ぐらいかと思っていたら、1年間! 本当にショックを受けましたね。
言葉は好きじゃないけど“復讐”してやろうと決めた。絶対に日本のやつらに私のことを認めさせてやるんだ、と。だから練習は誰よりもやった。ひたすらやった。実は香港のクラブから読売の3倍の給料でオファーがあったけど、断った。復帰してこの怒りを試合でぶつけるため。あそこで折れなかったから今の自分があるんだと思っています。でも松木(安太郎)を始め、友人に支えられました。気分転換でどこかに連れていってもらったりして精神的には助かった」
ラモスは耐えた。怒りをエネルギーに変換して復帰した翌シーズンは1部でリーグ得点王に輝いている。もしあのとき日本にとどまっていなかったら、日本国籍を取得して日本代表に呼ばれることもなかっただろう。そして日本サッカーにとって大きな損失になっていたはずだ。
「松木がいなかったら、私はきっと日本を離れていた。松木のおかげで残った。借りを返したい、松木を男にしたいという思いはどこか心のなかにずっとあった」
ラモスは読売クラブのチームメイト、同じ1957年生まれの松木のことを信頼していた。
Jリーグ開幕イヤーの1993年シーズン。その松木が監督となり、ラモスがベテランとして引っ張るヴェルディはセカンドステージを制し、ファーストステージ覇者の鹿島アントラーズとチャンピオンシップで対戦した。第1戦を2-0勝利し、ジーコの“つば吐き事件”で知られる第2戦を1-1で終え、ヴェルディが初代王者となった。
「松木のためって思っていましたよ。最後のJSLを優勝したのが読売なら、最初のJリーグで優勝するのがヴェルディだって思っていたから。だから凄くうれしかったね」
フットボールを愛し、仲間を愛し、日本を愛すラモスは、サッカーファンから愛され続けた。そして確かなテクニックは中村俊輔をはじめ、多くのフットボーラーに影響を与えた。
Jリーグの日に合わせて、過去のプレーを振り返って映像を見返すのもいい。
カレーとラモス、華麗とラモス。
なるほど、と今になって妙に納得してクスッと笑う自分がいた。