ロベルト・バッジオは、報道陣に一斉に取り囲まれた。
「ファブリツィオ、行こう」
 ここで彼を捕まえるしか方法はないのだ。
 ファブリツィオは、報道陣をかき分け、僕は後に続いた。イタリア人記者はなぜか道をゆずってくれた。そして、バッジオの顔が見えた。

(写真:ミランから移籍するのか、残留するのか。この時、バッジオの一挙手一投足はイタリアはもちろん、世界中から注目を集めていた)
<本物だ>
 僕は心の中で叫んだ。
 バッジオはスーツの上に分厚い生地のコートを着て、野球帽を被っていた。報道陣と比べても彼は小柄で、華奢な体つきをしていた。どう表現したらいいのか分からないが、彼の周りには他の選手とは違う空気が流れているようだった。アスリートというよりもアーティストと言う風情だった。
 バッジオは低い声で、移籍に関する質問を答えていた。
 僕はファブリツィオの肘をつついた。ファブリツィオは、この話が切れたらという風に目配せした。

「ちょっとロベルトいいかい。彼は東京から来たんだけれど」
 周りにいた報道陣たちが、一斉に僕を見た。
「彼は日本のジャーナリストで、ジーコの連載を担当しているんだ。ジーコがあなたについて、話しているんだけれど、それについてコメントをもらえないかな」
 バッジオの表情が急に軟らかくなった。
「ジーコのことならば、僕はいつでも話をするよ」
 バッジオは僕の目を見て、ジーコのことを話し始めた。
「ジーコは僕にとって憧れの選手だった。僕が、ヴィツェンツァの下部組織にいた時、監督から“ジーコ”と呼ばれたことがあった。そうした選手に少しでも似ていると思われることが嬉しくて仕方がなかった」

 バッジオはカルドーニョという街で生まれている。ジーコが所属していたウディネとは距離的に近く、親近感を持っていた。
「ジーコに似ているのは当然だったんだ。だって、僕は彼のフリーキックを子供の頃から真似ていた。ジーコのようにプレーしたいといつも考えていたんだからね」
 ジーコと初めて会った時、彼は自分が大ファンであることを告白した。ジーコはバッジオの才能を認め、自分のゴールを集めたビデオや、ジーコをあしらったシャツなどをプレゼントしてくれたこともあったという。

 ファブリツィオは僕の耳元で、簡略にバッジオの言葉を翻訳し、質問を次々と続けた。
 周りには多くの報道陣がいたのだが、誰も一言も発せず、僕とバッジオ、そしてファブリツィオだけの空間ができているような錯覚になるほどだった。
「ありがとう」
 僕が軽く頭を下げると、バッジオはにっこりと笑った。それを合図に、魔法が解けたかのように、再び周囲の報道陣はバッジオに質問を始め、ざわめきが戻った。
 僕とファブリツィオは報道陣の外に出ると、握手した。

 帰りの車の中で、ファブリツィオは興奮気味だった。
「感じは伝わったと思うけれど、バッジオは非常に丁寧に質問に答えたくれた。ジーコの名前を出したからかもしれない。君がわざわざ日本から来たせいかもしれない。なかなかああいう選手はいないよね」
 僕も同じ意見だった。
「サッカーの仕事だったから、今まで言わなかったことがあるんだ」
「なんだい?」
 僕が首を傾げると、彼は笑った。
「実は僕はユベントスのファンなんだ。だから、バッジオのことをあまり好きじゃなかった。彼はユベントスを出て行った人間だからね。でも今日話して、僕は彼のことが好きになった」
 窓を開けると、冷たい空気が中に頬にあたった。心地よい夜だった。

(終わり)


田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクションライター。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。休職して、サンパウロを中心に南米十三ヶ国を踏破。復職後、文筆業に入る。現在、携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。08年3月11日に待望の新刊本『楽天が巨人に勝つ日―スポーツビジネス下克上―』(学研新書)が発売された。




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