本当は、8月の終わりに僕は北京に行くはずだった。
 サッカー男子ブラジル代表が決勝まで進んだ場合、僕はドゥンガのマネージメントを手がける人間と一緒に試合を見に行く約束をしていた。切符の手配はもちろん、ブラジル代表監督のドゥンガに頼むことになっていた。

 ドゥンガのことはもはや説明不要だろう。ブラジル代表の主将として、ワールドカップに3度出場。2度の決勝進出、1度の優勝を成し遂げている。クラブチームでは、母国ブラジル、イタリア、ドイツ、日本のジュビロ磐田でもプレーした。大きな身振りで、味方の選手を叱咤激励する姿は、今も人々の記憶に残っているはずだ。

 彼にはこれまでに何度も話を聞いてきた。最初は、ジュビロ磐田でプレーしていた時だった。この時は、「あんまり選手を叱らないでくれと会社から頼まれているんだ」と困惑した表情で話していたことが印象に残っている。

 親しく話すようになったのは、2002年にドイツで行われた世界選抜のチャリティマッチの時だ。廣山望選手が、世界選抜に選ばれ、僕も同行することにした。

 鹿島でプレーしていた元ブラジル代表ジョルジーニョが主宰する、貧しい子供達をサポートする施設の資金を集めるための試合で、世界選抜とボルシア・ドルトムントが試合をすることになっていた。

 世界選抜といっても、ほとんどがブラジル代表の94年W杯優勝メンバーだった。
 監督のザガロ、ドゥンガ、ジョルジーニョ、ベベット、タファレル、アウダイール−−。主宰者の一人、元ジェフのウィントン・ルーファーを除けば、廣山も僕も知り合いの人間はいなかった。僕は、廣山の練習に付き合って、二人でゴルフ場を走ったりしていた。そんな二人をもっとも気を遣ってくれたのが、ドゥンガとジョルジーニョだった。
(写真:世界選抜の試合前。ドゥンガとアウダイール)

 同じホテルに泊まり、ジョルジーニョたちからは廣山選手と一緒に食事に招待された。世界選抜の選手が集まった食事会に僕まで招かれ、ドゥンガとジョルジーニョがみんなに紹介してくれた。
 ピッチの中でのプレー、存在感はもちろんだが、こうした気遣いができるからこそ、リーダーとして認められているのだということが分かった。

 その後、ドゥンガの日本でのマネージメントを僕の知人が頼まれた。知人は、いわゆる芸能関係の人間ではない。彼の主たる希望は、日本でテレビに出たりしてお金を稼ぐことではなかった。それよりも自分の活動を日本の人々に知って、手助けをして欲しいという。

 彼が日本にやってきた時、僕は彼と長時間話をすることになった。
 話を聞くうちに、僕は是非ともブラジルに行って、彼がやっていることを自分の目で見てみなければならないと思った。
 彼の生まれ故郷に近い、ブラジル南部の都市ポルトアレグレに行くことになったのは、2004年の8月のことだった。



 ブラジルは多様な民族が混じり合っている国である。ブラジルらしさを一言で片づけるのは出来ない。サンパウロ、リオ、あるいはアマゾンのマナウス、北東部のサルバドール、それぞれ違った個性を持っている。ブラジルの南部にあるリオ・グランジ・ド・スール州の州都ポルトアレグレもまた、そんな街の一つである。

 ブラジルの南部は、金髪碧眼の白人が他の街に比べると多い。中でもドイツ系移民が多く、ポルトアレグレの近郊には、ノーボ・ハンブルゴ(英語に直訳すればニュー・ハンブルグ)という街もあるほどだ。
 アルゼンチンと国境を接しているため、言葉遣いも幾分かスペイン語風になっている。マテ茶を良く飲むという風習もアルゼンチンと共通している。

 ポルトアレグレというと、ブラジル人ならば「ガウショ」という言葉を思い浮かべるだろう。ガウショとは、南米風のカウボーイである。赤や黄色の派手な色のスカーフを首に巻き、少々洒落た格好をしているガウショたちが牛を追っている−−そんな牧歌的な風景を思い浮かべる人は多い。
 もっともポルトアレグレは、人口140万人を越える、ブラジル南部最大の商業都市でもある。高層ビルが建ち並び、古い建物からは、欧州の香りが漂ってくる都市である。



 僕の乗った車は、ポルトアレグレの街を出てから30分ほど走っていた。
 気がつくと、道路の左右の色が茶色になっていた。雨で黒く変色した板きれや、表面が崩れかけた煉瓦で出来た、平屋建ての、日本の感覚では家とはいえない家が建ち並んでいる。様々な色の板がつぎはぎになった家の前には、色褪せた洗濯物が干してあるのが目に入った。
(写真:貧民街は太陽に照らされていると美しく見えるが、危険な場所である)

 悪名高き、ブラジルの貧民街──。 
 2002年にブラジルで『シティ・オブ・ゴッド』という映画が公開された。リオ・デ・ジャネイロの貧民街を舞台とした新興マフィアを描いた作品だ。年端の行かない少年たちが、麻薬を扱い、殺し合う。これは現実の話だ。ブラジルの新聞では、身元不明にするため、首を切り落とした死体が見つかったという記事は日常となっている。彼らは、数百ドルの報酬で人を殺す。命の重さは果てしなく軽い。同じようなことはポルトアレグレでも起こっている。

 2002年にリオ・デ・ジャネイロのカーニバルの取材に出かけたことがあった。その時に、リオのファベーラ(貧民街)にも入った。
 ファベーラは、元々リオに働きに来た人間が、通いやすいように、街の近くの山を不法占拠したことから始まっている。リオの街は山に囲まれている。海の岩に小さな貝がびっしりとこびりついているように、リオ周囲の山には煉瓦や板きれで作った粗末な家が並んでいる。

 ファベーラの中に入るには、少々手数を踏まなければならない。
 僕たちは、地区でボランティア活動をしている女性に、寄付を払うという形で、案内してもらうことにした。撮影をしていると、30分ほどで、「そろそろ引き上げないと厄介なことになる」と急いで引き上げたことがある。それだけ気を遣う場所なのだ。

 前を走っていたドゥンガの運転する黒い四輪駆動車が速度を急に緩めた。

(Vol.2へ続く)


田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクションライター。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。休職して、サンパウロを中心に南米十三ヶ国を踏破。復職後、文筆業に入る。現在、携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。08年3月11日に待望の新刊本『楽天が巨人に勝つ日―スポーツビジネス下克上―』(学研新書)が発売された。




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