「強くなりたい」という一心で楠原千秋が進学先に選んだのは大分県の扇城高校(現・東九州龍谷高)だった。
 実は楠原は年が明けてもまだ進学先を決めてはいなかった。1月の台湾遠征に呼ばれた時点でも、まだ志望校すらはっきりしていなかったのである。そんな時、遠征で一緒になった友人が扇城高に進学することを聞いた。楠原には初めて耳にする校名だった。
「高校選抜チームに京都代表で私と同じく2年生の時から県選抜に選ばれるような優秀なセッターがいたんです。その子から『先生に言っておくから、今度練習見に行っておいでよ』と言われたことがきっかけでした」

 台湾から帰国し、自宅に戻ると扇城高の監督から早速、電話がかかってきた。
「近いうちに見学に来なさい」
 楠原は誘われるがまま、練習を見に行った。案の定、練習は厳しいものだったが、高いレベルでバレーに打ち込める環境に魅力を感じた楠原は、すぐに進学することを決めた。監督の自宅が寮となっていて、食事についても全く心配はなかった。自分に勧めてくれた友人が全国随一のセッターであり、アタッカーとしては優秀なセッターがいるチームでプレーをしたいという気持ちが何より大きく、一番の決め手となった。

 しかし、実際に入ってみると、練習の過酷さは想像以上のものだった。
「見学した時の練習はホンモノではなかった。入ろうかどうか迷っている私の前では、先生もまだ優しくなっていたんです。そのことが初日の練習ですぐにわかりました。あまりの厳しさに『うわぁ、私、こんな所に来ちゃって大丈夫!?』と不安になったのを覚えています。でも、今さら引くこともできないし……みたいな(笑)」

 わずか15歳で故郷を離れての寮暮らし。さすがの楠原もホームシックにかかった。2カ月に一度の休日には必ずといっていいほど、松山の実家に帰省した。だが、ほっとする時間はすぐに終わり、大分へと戻るフェリーの中ではいつも涙が流れたという。
「もちろん、家が恋しかったのもあります。半面、『また明日からあの厳しい練習の日々が続くのか』と思うと、大分に戻りたくなかったんでしょうね。とにかく先生が怖くて怖くて……。何度も逃げ出したくなりました。練習に耐えられたのは、先生に怒られたくないという気持ちがあったからでした」

 だが、その監督との出会いが楠原を成長させてくれたと言っても過言ではなかった。単にガミガミと怒るのではなく、今思えばきちんと筋の通った指導だったのだ。例えばミスも1度目は怒られなかった。ところが、2度同じようなミスをすると、すぐに大きなカミナリが落ちた。

「ミスをするにしても、2度目は極端に逆のミスをしろと言われていました。例えば、サーブをネットにかけたとしますよね。次も同じようにネットにかけると、ものすごく怒るんです。でも、それがオーバーしてアウトにさせたのであれば、怒らないんです。1度目に犯したミスをしないようにした結果、やってしまったミスだからいいと。つまりミスしても、その後、自分で調節して工夫することの大事さを教えられたんです。
 技術的なことについても、あれをこうしろ、もっとこうしろ、とかっていう指導ではなかったですね。実際に先生がボールを持つことはほとんどありませんでしたから。言われたことについて自分で整理して、次にどうすればいいかを考えさせる。そういう指導法でした。まぁ、たまに勘違いしてしまって、逆に怒られたり、考えても何をしていいかわからなくて怒られたりもしましたけどね(笑)」

 チームは全員で約20人ほどだったが、九州や京都、広島などから優秀な選手が集まった少数精鋭型だった。その高いレベル間での競争においても、楠原は1年生からレギュラーの座を張り、活躍した。

 3年間で最も印象に残っているのは、2年生の時の国民体育大会だ。大分代表として出場した楠原たち扇城高は順当に勝ち上がり、準決勝へと駒を進めた。相手は優勝候補の筆頭に挙げられていた大阪代表。選抜とはいえ、メンバーのほどんどが大阪国際滝井高校の選手で占められていた。同校は前年夏のインターハイ、秋の石川国体、同年春の高校バレーで優勝し、3冠を達成していた。メンバーの中には元全日本男子バレーボール監督・大古誠司氏の娘もいて、全国屈指の強豪校だった。

 約半年前の春高バレーで扇城高は、準々決勝で大阪国際滝井高に敗れていた。その雪辱を晴らすまたとないチャンスだった。事実上の決勝戦となった両校の試合は春高同様、フルセットにまでもつれこんだ。しかし、明らかに勢いは楠原たちにあった。第3セット、扇城高はなんと15−7という大差で奪いとり、勝利を手にした。

「基本的にうちのチームは、勝ってもそれほど喜びを爆発させたりはしなかったんです。ところが、その時はみんなワケもわからず、スパイクやブロックが決まるたびにコートを走り回っていました(笑)。勝った瞬間は、もう全員が号泣していましたよ」

 翌日の決勝戦、扇城高は静岡選抜と対戦し、第1、2セットともに15−4で奪い、ストレート勝ち。実力差を見せつけての圧勝で5年ぶり2度目の優勝を決めた。しかし、楠原にとっては、準決勝の大阪戦が何より印象深く、現在でもその時の試合のビデオを観ることもあるのだという。

 こうして逃げ出したくなるほどの厳しい練習に明け暮れた高校3年間も、過ぎてしまえばあっという間だった。卒業後、教員を目指していた楠原は東京学芸大学に進学した。この時はまだ、まさか自分がビーチバレーの世界に足を踏み入れるなどとは、想像だにしていなかった。

 大学に入ってもバレーボール中心の生活は変わらなかった。そんな楠原のもとに突然の誘いがかかったのは大学3年の夏だった。友人から神戸市須磨海岸で開催される「ジャパンカレッジ」に出場しようと言われたのだ。それまでビーチバレーとの接点がなかった楠原にとってビーチバレーは異国の世界だった。

 出場には承諾したものの、大学の練習を休むわけにはいかない。ほぼ練習なしの状態で関東予選に臨まざるを得なかった。ところが、結果は優勝。さらに須磨での全国大会をも制覇してしまったのだ。
「その時自分たちがやっていたのはビーチバレーなんてものではなかった。決勝なんて、ほとんどがサービスエースでのポイントでしたから」と本人は謙遜するが、とにもかくにも初出場での初優勝。ビーチバレー選手として輝かしいスタートを切った瞬間だった。

 とはいえ、楠原にとってビーチバレーはまだ遊びの延長でしかなかった。「夏の思い出」の一つであり、競技として続けようとは微塵にも思っていなかった。ただ、インドアとは違うビーチバレーの魅力を感じていたことも確かだった。
「屋外競技ですから、とにかく解放感がありました。それから、ビーチバレーはDJがいたりして、会場がすごく盛り上がるんです。観客のノリなんかもインドアとは全然違いました。だから、すごく新鮮でおもしろいなぁ、と思いましたね」

 大学でひょんなことから出合ったビーチバレー。卒業後、楠原はその世界にどっぷりと漬かることになる。

楠原千秋(くすはら・ちあき)プロフィール>
1975年11月1日、愛媛県松山市生まれ。小学3年からバレーボールを始め、小学6年時には全国大会に出場。中学でもエースアタッカーとして活躍し、県や日本の選抜チームに抜擢される。大分・扇城高校(現・東九州龍谷高)2年時には山形国体で優勝。東京学芸大学4年時には主将としてインカレで優勝を経験した。ビーチバレーとの出合いは大学3年の時。友人に誘われて出場した大会で優勝し、インドアとは違うビーチバレーの魅力を肌で感じた。卒業後、地元のダイキに入社し、競技として本格的に始める。2004年のアテネ五輪に徳野亮子と出場し、1勝を挙げる。05年に湘南ベルマーレスポーツクラブに移籍。06年より佐伯美香とペアを組み、北京五輪出場を果たした。






(斎藤寿子)
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