王貞治と言えば、長嶋茂雄や大鵬、ボクシングのファイティング原田と並ぶ、我々の少年時代のヒーローである。
 その王さんが50年に及ぶユニホーム生活に別れを告げた。「ご苦労さま」の一言だ。

 何度も取材でお世話になったが、王さんほど優しくて厳しい人はいなかった。
 たとえば練習に対する考え方。
「練習というのは一石三鳥の価値がある。かりに1時間も打てば“このクソ暑いのにオレは1時間も打ったんだ。オレもやれるじゃないか”という自信がわいてくる。それがひとつ。
 次に、知らず知らずのうちにバットを振る筋肉がついてくる。同じ筋肉でもウェイト・トレーニングで鍛えた筋肉とは違うものなんですよ。
 3つ目に、打ち続けることによって自分なりのフォームができ上がってくる。15分くらいなら上半身の力だけで打てるけど、1時間も打ち続けるとなると、下半身の力が必要になってくる。
 だから、バットを振り始めたら10分や15分でやめちゃいけない。バットが手に重く感じるようになってから本当の練習が始まるんだということを覚えて欲しい」
 努力の人である。こうした考え方はホークスの小久保裕紀や松中信彦にしっかり受け継がれている。

 現役時代、868本ものホームランを打ちながら、王さんは「納得していない」と語っていた。これにはびっくりした。
「もし僕がもっと努力をしていたら(ホームランは)868本ではなく900本、いや1000本までいっていたかもしれない。選手にはこういう悔いを残して欲しくないから、強く言っているんです」

 ある意味、868本という本塁打数以上に不滅の大記録と呼べるのが通算2390という四球数である。
 いかに目がよかったか、ボール球には手を出さなかったかという証拠である。
 以前、王さんから「今のバッターはキャンプ中、ブルペンに足を運ばなくなった。あれはもったいない」という話を聞いたことがある。
 現役時代、王さんはキャンプが始まると必ず自軍のブルペンに足を運んだ。バットを持たずに打席に立ち、堀内恒夫や高橋一三らが投げるボールに目を凝らしたというのである。
 要するに“目慣らし”を行なっていたのだ。どんなにスイングスピードが速くても、ボールの変化に対応できなくては、バットの芯でボールをとらえることはできない。悪球に手を出しているようでは話にならない。

 かつて球界には“王ボール”という表現があった。バッテリーがストライクだと判断しても、王さんが微動だにしなければ球審は「ボール!」とコールした。
 そのくらい貫禄があったということだが、それだけではない。球審が王さんの“眼力”を信頼していたのである。ピッチャーには気の毒だが、せっかくきわどいコースに投げても、王さんがピクリともバットを動かさなかった場合、そのほとんどがボールにされてしまった。

 監督になってからは現役時代よりもさらに眉間のシワが増えたような印象がある。ファンから生卵をブツけられたこともある。喜びよりも苦労の方が多かったのではないか。
 ダイエーが初優勝を果たした年のキャンプでこういうことがあった。根本陸夫球団社長が、選手やコーチを前にして、こうスピーチしたのだ。
「オマエら、中華ソバ屋のせがれに何ビクビクしているんだ!」
 この一言が大きかった。あるコーチは私にこう言った。
「それまで王さんというと偉大過ぎて、こちらから話しかけづらい雰囲気があった。ところが、あの一言で選手、コーチとの間にあった高い壁が一気に取り除かれたんです。亡くなる前の根本さんの大仕事だったと言えるかもしれません」

 監督としては巨人、ホークス合わせて19シーズン指揮を執り、4度のリーグ優勝(うち日本一2度)を果たした。06年には日本代表を率いてWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の初代チャンピオンに輝いた。その年、胃ガンが発覚し、全摘手術を受けた。
 ユニホームを脱いだといって、隠居生活はできそうにない。球団最高顧問に加え、コミッショナー特別顧問まで引き受けることになった。
 王さんの体が心配だ。王さんに頼る気持ちはわからないでもないが、ちょっと甘え過ぎではないかとも思う。

<この原稿は2008年11月7日号『週刊ゴラク』に掲載されたものです>

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