歓喜に沸くラ・パルマへ! ~ホルヘ・ヒラノVol.5~

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 17歳のホルヘ・ヒラノに目をつけたのは、ウニオン・ウアラルの監督、モイゼス・バラックだった。

 

 バラックは1943年にリマで生まれた。リマのla“U”こと、ウニベルシタリオなどでディフェンダーとしてプレー、70年に現役引退。73年から指導者に転じていた。76年シーズン、2度目のウニオン・ウアラルの監督に就任、ペルー1部リーグ優勝という結果を残した。彼は後にペルー代表監督を務めることになる。

 

 ヒラノはこう振り返る。

「ウニオン・ウアラルの前座試合として16歳、17歳以下の試合をやっていた。そこに出ていたぼくのことを気に入ったのか、バラックから声を掛けてもらったんです」

 

 プロ選手としての経験がない10代の選手が、前年度優勝クラブに放り込まれたのは酷だったかもしれない。

 

「試合最後の15分、20分ぐらい、3、4試合出たぐらいだった。そんなにチャンスを貰えなかった」

 

 バラックは若いヒラノをじっくりと育てる方針だったのだ。

 

 記録を調べると、77年6月2日のリベルタドーレス杯のスポルトボーイズ戦の先発メンバー、フォワードにヒラノの名前を見つけることができた。中盤にはヒラノの兄、ホセの名前もある。前年リーグを制したウアラルは、南米大陸クラブチームナンバーワンを決めるリベルタドーレス杯の出場権を得ていたのだ。ウアラルは、ペルーのスポルトボーイズ、ベネズエラのポルトゥゲーザFCとエストゥディアンテス・デ・メリダとグループ5に入った。

 

 このスポルトボーイズ戦は1対1の引き分けという結果だった。ウアラルはポルトゥゲーザFCの勝ち点に届かず、グループリーグ2位で敗退している。

 

 報酬を出すアマチュアクラブへ

 

「77年シーズンは、チームの成績も上がらず、経営状態も良くなかった。さらに父親からは大学に行くために勉強しなさいって言われていた。毎日練習に参加できなくなってしまった」

 

 そんなヒラノを地元のクラブが見落とすことはなかった。サン・ホセ・デ・ワチョというアマチュアクラブがヒラノの父親、繁に連絡をとってきた。

 

「食事代とちょっとした小遣いを出すから来ないかという。そこで従兄弟たちと3人でサン・ホセに行くことにした」

 

 70年代、ペルーのサッカーは登り調子に入っていた。

 

 70年、ペルー代表はワールドカップ・メキシコ大会に初出場。ペルー史上最高のプレーヤーであるテオフィロ・クビージャスは、「ペレの後継者」と称され、欧州のクラブから注目される存在となった。アリアンサ・リマに所属していた彼は、スイスのFCバーゼル、そしてポルトガルのFCポルトに移籍する。

 

 75年の南米選手権――コパ・アメリカではクビージャスを中心とするペルー代表は決勝でコロンビア代表を下して2度目のタイトルを獲得している。ペルー代表のもう1人のクラッキ(スター選手)――FCバルセロナに所属していたウーゴ・ソティルはクラブの許可の関係で、決勝戦のみプレーしている。

 

 さらに78年、アルゼンチンで行われたワールドカップにもペルー代表は出場。このとき南米大陸の出場枠は2・5という狭き門だった。出場したのは、開催国のアルゼンチン代表とブラジル代表、そしてペルー代表のみだった。

 

 ペルー代表はオランダ代表、スコットランド代表、イラン代表と共にグループ4に入り、首位通過。2次リーグではアルゼンチン代表、ブラジル代表、ポーランド代表とグループBに入った。

 

 得点王・ヒラノへのオファー

 

 ところがペルー代表はブラジル代表、ポーランド代表に連敗を喫する。この大会では2次リーグの首位がグループAとの決勝に進出するという規程だった。最終節を前にブラジル代表とアルゼンチン代表は1勝1分けを挙げていた。最終節はそれぞれポーランド代表、そしてペルー代表と対戦する。

 

 本来はこうした試合は公平を期するために同時刻に開始される。ところが、ブラジル代表対ポーランド代表は16時45分から、アルゼンチン代表対ペルー代表は19時15分から開始となった。まずブラジル代表はポーランド代表に3対1で勝利、アルゼンチン代表は決勝進出のために、ペルー代表に4点差以上の勝利が必要となった。

 

 クビージャ、ソティルを擁するペルー代表とアルゼンチン代表にそれほど力の差はないはずだった。しかし、結果は6対0と大差がついた。アルゼンチンの軍事政権がペルー代表を買収したといわれている。決勝でアルゼンチン代表はオランダ代表を下して初優勝した。

 

 この大会でブラジル代表の8番をつけていたのがCRフラメンゴのジーコである(10番はリベリーノ!)。78年ワールドカップの話になるとジーコは表情を固くして「ブラジルは一度も敗れることになく、大会を後にすることになった。アルゼンチンはワールドカップを盗んだ」と激しく罵った。その剣幕にぼくは驚いたものだ。

 

 汚れ仕事に手を貸せば、必ずしっぺ返しを受ける。ペルー代表は政治体制の混乱もあり80年代から長い低迷期に入ることになる。

 

 話をヒラノに戻そう。

 

 ヒラノは78年シーズン、プロリーグの1つ下、地域リーグのサン・ホセで結果を残した。ヒラノによると得点王になったという。今度はフベントゥ・ラ・パルマというクラブから誘いがあった。

 

 フベントゥ・ラ・パルマは1950年に設立されたウアチョを本拠地とするサッカークラブである。78年シーズン、地域リーグを勝ち抜き、24地区代表による『コパ・ペルー』で優勝、1部リーグ昇格を決めていた。ウアラル郡のクラブチームがプロリーグである1部リーグに昇格するのは初めてのことだった。

 

 ペルーの国内リーグの設立は1912年に遡る。これは明治45年=大正元年に相当する。設立からしばらくは首都リマ以外のクラブは参加することさえできなかったという。中央集権の傾向が強く、サッカーもリマを中心に回っていたのだ。そのため、ラ・パルマの昇格は一帯の人々に大きな喜びをもたらすことになった。

 

 79年シーズンから、ヒラノはラ・パルマに移籍することになった。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。

2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com

 

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