熊代聖人が試合に必ず持って行くお守りがある。大好きだった祖父の遺影だ。小さい頃の熊代はいわゆる“おじいちゃん子”。祖父の家に遊びに行けば、たった一人でも泊まりたいとせがみ、職場について行ったこともあった。祖父もまたそんな熊代を「マー」と呼び、かわいがっていたという。
「赤ちゃんの頃から祖父のヒザの上があの子の指定席でした。“マーはプロ野球選手になるんじゃ”。テレビでプロ野球を観ながら祖父は念仏を唱えるように、いつもあの子にそう言っていたんです」と母・美樹は語る。熊代の野球人生は祖父なくしては語れないのである。
 祖父と初めてキャッチボールをしたのは、熊代がまだ幼稚園に通っていた頃のことだ。ある日、同い年の従兄弟と2人、至近距離から祖父に向かって投げることになった。まずは従兄弟が投げた。フォームはバラバラ、スピードもなかったが、祖父が構える所にスポンとおさまった。次に熊代が投げた。
「おっ、フォームはきれいやぁ」
 いつも祖父と一緒にプロ野球を観ていたからか、なかなかフォームは様になっていた。だが、思いっきり投げたボールは祖父の頭の上を越える大暴投。
「フォームはマーの方がきれいやけど、コントロールはケイ(従兄弟)だな」
 大の負けず嫌いの熊代は、そう言われたことが悔しくて仕方なかった。だが、このことが彼を野球の世界にのめり込ませるきっかけとなったのだ。

 祖父は孫の熊代がプロ野球選手になることを楽しみにしていたという。しかし、熊代が小学2年の時に他界してしまった。
「これに何か書き」
 告別式の日、そう言って祖母がくれたのはアイスの棒だった。熊代は「絶対プロ野球選手になるけん」と書いた。今でも祖父の仏壇に供えられているそのアイスの棒が熊代の原点となっている。

 家族の支えあっての野球

「小さい頃から落ち着いた性格のお兄ちゃんとは全くの正反対。ケガなんかしょっちゅうでしたし、歩いているのを見たことがないっていうほど、いつだって走り回っていました。イタズラも好きでしたし、いわゆる“お山の大将”でしたね」
 母親はそう言って、当時のことを思い出したのか、懐かしむように笑った。

「手のかかる子ほどかわいい」と言うが、そんな“やんちゃ息子”が15歳から家を離れて一人暮らしを始めることに母親として不安はなかったのだろうか――。
「うちは共働きでしたから、家にいる頃から聖人も洗濯物を干したり、洗いものをしたりしていたんです。ご飯も炊けましたしね。だから、生活面ではそれほど心配はしませんでした。でも……」

 それまで快活だった母親の声が突然、小さくなった。
「でも、あの子は人一倍寂しがりや。知らない人ばかりの中でやっていけるかなって心配でした。案の定、入学式の日、アパートに帰ってくるなりご飯も食べずに“うーっ”って頭抱えてるんです。『どうしたん?』って聞いたら『今日、誰ともしゃべってない』って。今まで小さい頃から知っている人ばかりの中でお山の大将でしたからね。初めて誰も知らない世界に飛び込んで、ショックが大きかったんでしょう。私がいた3日間、ずっと頭を抱えていましたよ。帰り際に『今度いつくるん?』って寂しそうな顔して言うんですよ。もう、その時のことを思い出すと、今でも涙が出てきてしまうんです」

 3季連続で甲子園に出場し、熊代の高校生活は一見華やかに見えるが、決して順風満帆ではなかった。入学早々、肩を痛めて投げることができずにもがき苦しみ、初めての甲子園では延長サヨナラ負けという試練が待っていた。高3の春は不調続きで一時はエースをクビになったこともあった――。いくつもの苦しみを味わってきた熊代だが、母親もまたそれは同じだった。

「高校2年の夏、甲子園で負けた時、私は責任は全て聖人にあると思いました。延長13回、同点にされて四球に暴投……。『あぁ、あの子の悪いクセがまた始まった』と思いながら見ていました。試合後、私は誰にも話しかけられず、バスが停まっている駐車場まで一人でトボトボと歩いていました。そしたら携帯に1通のメールが来たんです。中学時代の松山プリンスから一緒だった3年生の土居慎司くんのお母さんからでした。『今までありがとう』って。もう、それを見て涙が止まらなかったですよ……」

 そう語る母親の声は震えていた。息子とともに歩んできた3年間、ときには厳しく、ときには励まし、そしてときには涙を流しながら家族と一緒に熊代を支えてきたのだ。そのことは熊代本人も痛いほどわかっていた。インタビュー中、熊代の口からは何度も家族への感謝の言葉が相次いだ。
「僕が野球をやっていることで、家族には本当に迷惑をかけてきました。特に6歳離れている妹には悪いことをしたなと。遊びたい盛りなのに、休日家族でどこかに出かけることもできなかったんですから」
 苦労のたえなかった高校3年間を熊代が乗り越えられたのは家族のおかげだった。そしてまた、熊代自身が家族への感謝の気持ちを忘れなかったからに違いない。

 熊代の「まさと」という名前は、「聖人」のように人のよきお手本となってほしいという両親の願いが込められている。
「まだまだのところはたくさんありますが、一番大事な人としてという部分ではちゃんと育ってくれました。親の私が言うのも何ですが、名前負けしているということはまったくないと思っています」
 常に感謝の気持ちを忘れず、目標に向かってまっすぐに走り続ける熊代は、母親にとって自慢の息子なのだ。

 一方、父親は熊代が子供の頃は、まったくといっていいほど野球に関心を抱いていなかったという。だが、今では熊代に負けないくらいの阪神ファンとしてプロ野球を楽しんでいる。息子のデビューを心待ちにしながら、父親はテレビの向こうの選手に息子の姿を重ね合わせているのかもしれない……。

 勇気づけられている子供たち

 熊代の活躍を楽しみにしているのは、もちろん家族だけではない。全国には熊代のプレーに憧れ、励まされ、勇気づけられた子供たちがたくさんいるのだ。
「社会人になってから、ある中学生の女の子から手紙をもらったんです。重い病気にかかっていたのですが、僕が投手から野手に転向してがんばっていることに勇気づけられて成功率が低い手術を受けることを決心することができた、という内容でした。自分が野球をすることで、子供たちにそんなふうに思ってもらえるなんて、本当に嬉しいことです。この間も、大阪からわざわざ子供が練習を見に来てくれたんです。バットをあげたらすごく喜んでくれて……。子供たちのためにも、頑張らなくちゃと思っています」

 家族や子供たちをはじめとした全国のファンの期待に応えるべく、熊代は社会人1年目から新人とは思えぬ活躍を見せてきた。今シーズンの締めくくりとされた先の全日本選手権では2回戦で敗れはしたものの、都市対抗大会では出なかったヒットを3本放ってみせた。特に2回戦のヤマハ戦、1点ビハインドで迎えた最終回での1本は熊代にとっては格別だった。
「その試合、僕は相手ピッチャーのスライダーにまったくあっていなかったんです。最終回も全てスライダーだったのですが、僕はアウトになるのが怖くて手を出せませんでした。でも、2ストライクに追い込まれたことで、逆に気持ちが吹っ切れたんです」

 カウント2−1からの4球目、予想通りのスライダーを熊代はセンター前に運んだ。
「このヒットはすごく自信になりました。全国の舞台で、しかもプレッシャーのかかる場面で自分を冷静にコントロールさせることができたからです。今、自分自身で精神的に成長できたかなと感じています。社会人という進路を選択したことは決して間違いではなかったと確信することもできました」

 一方では自分の課題も浮き彫りとなった。
「この1年、大きな大会をいくつも経験することができました。そのおかげで今のままではダメだということもわかりました。守る、打つ、走る。全ての面で、さらにレベルアップが必要だと痛感しています」

 帰郷の際には必ずといっていいほど、大好きだった祖父のお墓参りに出かけ、近況を報告するという熊代。
「じいちゃん、オレ、プロ野球選手になったけん!」
 2年後の秋、そんなふうに祖父に吉報を届けられるよう、今日もまた熊代はグラウンドで白球を追い続けている。

(おわり)

<熊代聖人(くましろ・まさと)プロフィール>
1989年4月18日、愛媛県久万高原町生まれ。小学4年から野球を始め、中学3年時にはボーイズ・松山プリンスクラブで西四国大会優勝を果たし、全国大会に出場した。今治西高校では2年からエースとして活躍。打者としても主軸を担い、3季連続甲子園出場を果たした。3年夏にはベスト8進出。秋の国体で優勝し、投手として有終の美を飾る。3年後のプロ入りを目指し今春、日産自動車に入社。投手から打者に転向し、現在は「3番・セカンド」に定着している。175センチ、72キロ。右投右打。







(斎藤寿子)
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