日本シリーズ最終戦、スタメン9選手の年俸総額は巨人17億250万円、埼玉西武5億5500万円(いずれも推定)。西武は巨人のおよそ3分の1。巨人・李承の年俸が6億円だから、彼ひとりの年俸で西武のスタメン9人が雇える計算になる。
 しかも勝ったのは西武だった。就任1年目の渡辺久信監督の采配が節目節目で的中した。最終戦、同点のホームを踏んだ片岡易之は死球で出るなる2盗を決め、中島裕之のボテボテの3塁ゴロの間にホームベースを駆け抜けた。
 試合後、殊勲の片岡は「このシリーズ、待てのサインは一度もなかった」と語った。

 正直いって、就任1年目で渡辺が西武を日本一に導くとは思ってもみなかった。なにしろ昨季、チームは26年ぶりのBクラス(5位)に転落していた。
 シーズンオフには主軸の和田一浩(中日)とアレックス・カブレラ(オリックス)が抜け、開幕前には「飛車角抜きでの戦い」と同情された。

 しかし、野球というスポーツはやってみなければならない。スタートダッシュにこそ失敗したが、4月5日に首位に立つと、一度も2位に落ちることなくゴールインした。その後のクライマックスシリーズ、日本シリーズでも西武は勝負強さを発揮した。日本シリーズでは2勝3敗と先に巨人に王手を許した。
 しかも、残り2試合は巨人の本拠地東京ドーム。西武逆転の可能性は極めて低いと思われた。
 だが渡辺は第4戦で完封勝ちを収めた岸孝之を第6戦のリリーフで起用するなど、球界の常識を覆すような采配を随所で見せた。
 現役時代は素質だけで勝負していたような印象がある。ピッチングはイケイケでおよそ指導者には向いていないと思われた人間が、まさか、これほどの成長を遂げるとは……。

 渡辺の指導者としての原点は台湾にある。日本球界を引退後、渡辺はコーチ修行のため台湾に渡った。ところが渡った台湾で予期せぬ事態が待っていた。投手力の弱さを補うため、監督から直々に現役復帰を命じられたのである。
 1年目にいきなり18勝(7敗)。MVPに始まり、最多勝、最多奪三振、最優秀防御率とタイトルを総ナメにした。
 しかし、これでは何のために台湾までやってきたのかわからない。渡台の目的はあくまでもコーチ修行なのだ。日本で培った技術をどのようにして台湾の若手に伝えるか。

 悩んだ挙句、渡辺は独自の指導スタイルを確立する。
「たとえば伸び悩んでいるサイドスローの投手に対して“オレは今日、オマエと同じフォームで投げるからよく見とけ!”と言って実際にサイドスローで投げたこともあります」
 台湾での悪戦苦闘の3年間が渡辺を成長させたのである。なるほど、若い時の苦労は買ってでもするものだ。
 先述した片岡が典型だが、西武の若手は失敗を恐れない。渡辺が口ぐせのようにいうチャレンジ精神がわずか1年間でチーム全体に染み込んだ。

 開幕早々、こんなことがあった。
<試合後、選手を集めてのミーティングが始まりました。選手に発破をかけたかったのでしょう。黒江透修ヘッドコーチが、やや叱るような口調で話し始めようとしました。
「打撃が大振りになりすぎている! 投手陣に申し訳ないと思わないのか……」
「黒江さん、ちょっとすみません」
 僕はコーチの言葉を遮りました。
 確かに開幕戦は、単なる1試合とは意味合いが違う、非常に大きな試合だと考える人もいます。でも僕は、「開幕戦1試合に負けたくらいで、そのチームを判断してほしくない」と考えていました。1年を通じての大きなコンセプトの中で、どれくらいやれるのか。その点を、長いスパンで見ながら判断してほしかったのです。
「コーチ、僕らは秋から、しっかり振り込むことができる打撃陣を目標にやってきましたよね。今日は負けましたが、それで僕らがやってきたことをすべて否定するようなことはいわないでください」
 と止めたのです。>(自著『寛容力』より)

 注意された69歳の黒江が、自分の息子のような渡辺を評して「アイツは大将の器だよ」と褒めていた。軸がブレない。腰が据わっている。43歳という若さながら、早くも彼には「名将」の風格が漂っている。
 今季を最後にユニホームを脱いだ王貞治前福岡ソフトバンク監督が「もうONの時代じゃない」と語っていた。
 チャンスさえ与えれば伸びる指導者はたくさんいる。それを証明したのが、かつて球界の「新人類」と呼ばれた男だったとは痛快だ。

<この原稿は2009年1月号『Voice』に掲載されたものです>

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