歯科医院で親不知を抜き、顎に手を触れながら帰宅しようと歩いていると携帯電話が鳴った。並ぶ桁数が普段よりも多い着信表示。その国際電話でエリオ・グレイシーが他界したことを知った。リオ・デ・ジャネイロ近くの病院で最期は苦しむこともなく静かに息を引き取ったそうだ。1月29日(現地時間)のこと……享年95。
 グレイシー柔術の創始者でエリオからは、たくさんの話を聞かせてもらった。その内容はいつも興味深かった。普段は温厚なのだが、話し始めると、その口調は熱くなり、10時間以上も一緒に過ごしたこともあった。

 16歳の時に、それまでは見ているだけだった柔術の実践に突然、目覚めたこと。兄カーロスとの関係。柔術をいかにグレイシー柔術へと改良したか。17歳でアントニオ・ポルトガルという名のプロボクサーとバーリ・トゥード(何でもありの闘い)を初めて経験した時のこと。1951年、マラカナン・スタジアムでの木村政彦戦。その後に木村が訪ねてきて「カーウソン・グレイシーと戦わせてくれ」と頼みにきたが、キッパリと断ったという後日談等々。

 エリオとは幾度も話をした。そして、最後に彼は必ず同じ言葉を口にした。
「いまの総合格闘技と私が闘ってきたバーリ・トゥードは同じではない」
 
 1930年代から約20年間、エリオは時間無制限かつノールールの闘いに挑み続けた。対して現在の総合格闘技は、時間には制限があり、ルールも整備され、スポーツ化している。70年の歳月を経て、その形は変化した。だが、エリオが言うのは、そのことだけではない。

「私は、人に見せるためだけの闘い、多くのファイトマネーを得るためだけの闘いなど尊敬できない。闘いとは自らの誇りをかけて行なうものだ。私は、自らの人生を捧げると決めたグレイシー柔術の素晴らしさを体現するために闘い続けたんだ。だから、いまの総合格闘技とは同じではない」

 こんな風にもエリオは話していた。
「私は争いは好きではない。私がつくり出したグレイシー柔術は護身術なんだ。自分よりも体の大きい狂暴な相手に挑まれても身は護らねばならない。グレイシー柔術を世界のすべての人に学んで欲しいと思う。そうすれば柔術の試合は行なわれても、争いが、この世から消えるんだ」

 この15年間における総合格闘技の発展をエリオは喜んでいた。それは柔術の有効性が世界に示されたから。一方で嘆いてもいた。「闘いの本質が見失われてしまった」から。ただ、エリオの存在なくして、『UFC』も『PRIDE』も『DREAM』も『戦極』も語ることができない。総合格闘技の源はグレイシー柔術にあり、すべてはエリオから始まったのだ。

 どうぞ、ゆっくりと休んでください、エリオ。
 オブリガード(ありがとう)、エリオ。

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近藤隆夫(こんどう・たかお)
1967年1月26日、三重県松阪市出身。上智大学文学部在学中から専門誌の記者となる。タイ・インド他アジア諸国を1年余り放浪した後に格闘技専門誌をはじめスポーツ誌の編集長を歴任。91年から2年間、米国で生活。帰国後にスポーツジャーナリストとして独立。格闘技をはじめ野球、バスケットボール、自転車競技等々、幅広いフィールドで精力的に取材・執筆活動を展開する。テレビ、ラジオ等のスポーツ番組でもコメンテーターとして活躍中。著書には『グレイシー一族の真実〜すべては敬愛するエリオのために〜(文春文庫PLUS)』ほか。
連絡先=SLAM JAM(03-3912-8857)
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