サイドバックを守るのは、中学生以来である。
 草サッカーの時は、だいたいがフォワード、あるいは中盤。守備のポジションは得意ではない。
 センターバックの動きを見ながらラインを上げ下げする。裏をとられない――頭ではサイドバックの動きは分かっているつもりだった。

(写真:モンペリエは、電気式の市電トラムが走る、近代的な街である)
 実際にやると、どこまでラインを上げなければならないのかがつかめなかった。日本と違って、長いボールを蹴らずに中盤では繋ぐので、ポジション取りを考えなければならなかった。
 僕の相対する相手のフォワードは身体は大きかったが、年配で動きが悪かった。中盤を支配していたこともあり、いつもの癖で次第にポジションを上げていった。
 ゴールエリア近くで、目の前にこぼれ球が転がってきた。相手の選手が詰めてきていた。

(打つしかない)
 思い切り右足でボールを蹴ると、軸足の左足がずれた。ボールは大きくゴールから大きく外れてしまった。思った以上に人工芝は滑るのだ。
「上がりすぎだ。もっと下がれ」
 センターバックの男が真っ赤な顔をして怒鳴った。僕は慌てて戻ることにした。
 ドリスは、ポジションを時折下げると、ボールをサイドの僕の前に出してくれた。他のフランス人の選手よりも、僕にとっては理解しやすいタイミングだった。前線のマニュエルにクロスボールを入れることを狙ったが、早めの位置からのクロスボールを出す習慣があまりないようで、反応してくれなかった。
 モンペリエスポーツクラブは、三対二で勝利。失点はしたが、僕のサイドは一度も破られなかった。
「悪くはなかったですよ。ただ、上がりすぎ。ずっと前にいましたよね」
 試合が終わると、横で見ていた廣山が笑いながら握手を求めてきた。
 確かに悪いプレーではなかった。ただ、自分の中で納得できなかった。

 僕は97年から一年間、ブラジルで生活していた時に、何十人もの日本人のサッカー留学生を見てきた。
 彼らの多くは「自己評価」が高かった。自分はプロになれるブラジル人の中に入っても、遜色がないと自負していた。それなのに日本では認められなかった。だから日本のサッカーのレベルは低いのだと言った。
 僕の考えは違っていた。
 サッカーは団体競技であり、極論になるが、まともにボールさえ蹴ることができれば、仲間に入ることができる。11人のうち、一人、二人の力量が劣っていても、ブラジル人選手は補うことができる力がある。
 だから、日本人留学生が中に入っても、それなりに試合をすることができる。ただ、チームに必要な選手であるかとなると全く話が違ってくる。
 彼らに対して、安全にプレーするのではなく、多少のリスクを冒しても、自分が目立つプレーをするべきだと話してきていた。
 それにも関わらず自分はフランスで安全にプレーしていた。
 僕はプロになろうという選手ではない。ただ、相手の選手はそれほど足が速くなかった。ボールを持って、翻弄することはできたはずである。日本人の美徳である、献身的な動き、自分を殺して他人を生かすことは、なかなか評価されにくい。彼らと対等に楽しむには、自分の色を出さなくてはならないことは分かっていた。
 僕はフランス人の中で気後れしていた。それが悔しかったのだ。

 試合が終わった後、みんなでイタリアレストランへ出かけた。パスタを食べ、ワインを飲み、サッカーの話をした。
 僕のライン取りを叱っていたセンターバックの男は、元々はラグビーの選手だった。一部リーグのクラブでプレーしていたという。どうりで、身体が大きく激しいわけだった。
 中盤の底で、うまくボールを散らしていた男は、イバン・ダビドといい、フランス国立フットボール研修所でエメ・ジャケと一緒に仕事をしていた。
(写真:試合終了後、モンペリエスポーツクラブは必ず、「ドン・ビット」の店で食事をして酒を飲む。オーナーのドン・ビットは元々イタリア人で、イタリア人コックに良くありがちなように、大きなお腹をしている)

 彼は、日本代表の監督だった、フィリップ・トルシエの事を知っていた。
「あいつは変わり者だよ。クレージーだと言ってもいい。自分は日本人に受け入れたので、日本人になりたいなんて言っていたようだけれど、よく日本人は彼に我慢できたね」
 イバンは肩をすくめた。
「日本人になりたいなんて言っていたのは知らないけれど、彼は日本ではそれほど受け入れられていなかったと思う。プレスとは毎回問題を起こしていたよ」
「そんな風に彼は言っていなかった。フランスよりもずっと日本がいいなんて話していた」
「フランス人は映画やワインなど文化的な面から日本では尊敬されていたけれど、そうでないおかしなフランス人がいることを日本中に知らしめたよ」
 僕の言葉に、イバンは大笑いした。ちなみにイバンは後にフランス女子代表の年齢別の監督になった。

 話を聞いてみると、三分の二近くの人間が、フランスの2部や3部でプレーした経験があるようだった。スペイン語の話せるイバンの他は、マニュエルが間に入って、通訳をしてくれた。フランス語を話せればもっと楽しいのにと痛切に思った。
 レストランを出るとき、マニュエルが僕の耳元で囁いた。
「会長のシャールがお前のことをクラブの一員として迎えると言っている。良かったな」
スポーツクラブはこの街では人気があり、入りたい人間は多いのだが、断っているのだという。
「サッカーができることはもちろんだけれど、酒が飲めること。これが大切だ」
 シャールが近づいてきて僕の肩を叩いた。マニュエルに通訳してくれと目配せした。
「毎年春には、フランス南部のチームが集まって大会がある。是非参加してくれ」

 翌2004年の五月、僕は再びモンペリエを訪れた。
 マニュエルの息子ギエンの運転する車で西へ向かっていた。スペイン南部、バルセロナに近い、ジョレト・デ・マールという街で大会が行われるのだ。
「これを見てみろ」
 マニュエルは荷物の中から、金色のカップを取りだした。
「スポーツクラブは昨年も優勝している。だから、マークは厳しい。それでも俺たちは勝たないといけないんだ。大丈夫、今年も優勝できるよ」
 しかし、彼の思い通りにはいかなかった。躓きは意外な場所から起こった。
(写真:スペインのジョレト・デ・マールで行われた大会にて。スポーツクラブのロッカールーム)

(Vol.4へ続く)


田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクションライター。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。休職して、サンパウロを中心に南米十三ヶ国を踏破。復職後、文筆業に入る。現在、携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。08年3月11日に待望の新刊本『楽天が巨人に勝つ日―スポーツビジネス下克上―』(学研新書)が発売された。




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