「ごっついやつやなぁ」
 岡山の玉島商業高校から駒沢大学に進学した大倉孝一は、同じ1年生とは思えないその体に驚きを隠せなかった。
「彼と初めて会ったのは入学前の3月でした。野球部の練習に行ったら、ひときわ首のぶっといヤツがいたんですよ。背はそれほどないのに、いやにごつくてね。それが河野(博文)でした」
 ひときわ異彩を放つ河野に、部員たちは「ウシ」という愛称をつけた。普通ならあまりいい気はしないものだが、河野は嫌な顔一つしなかったという。そんな温和な性格は今も昔も変わらない。
 しかし、そんな性格とは裏腹に、河野の強靭な体に大倉たちはしばしば驚かされた。ある日、こんなことがあった。練習中、ボールがバックネットの網にひっかかってしまった。10メートルほどの高さがあり、ちょっとよじ登っただけでは届かない。皆がどうしようかと思っていた矢先、河野がバックネットを登り始めた。その早いこと、早いこと。あっという間に一番上までよじ登り、ヒョイッといとも簡単にボールを取ってしまった。

「あの風貌でネットを登っている姿と言ったら……想像できるでしょ? ゴリラですよ、ゴリラ(笑)。あれは忘れられないなぁ」
 大倉は今にも吹き出しそうになるのをなんとかこらえながら、そんなエピソードを話してくれた。まさに言葉通り「人並み外れた」腕力だ。

 マウンドにひとたび上がれば、河野は力強いボールを投げる剛腕と化した。
「僕はキャッチャーだったので、1年の時から河野のボールは受けていました。当時の彼の持ち球は、140キロ台のストレートと落差のあるカーブ。ストレートはスピード以上に重さを感じましたね」と大倉。その実力は指揮官にも認められ、河野は1年の春からリーグ戦に登板し、初勝利も挙げた。続く秋季リーグも河野は登板する機会を与えられた。

 しかし、そのまま順風満帆にはいかなかった。入学早々、試合で活躍する河野が羨ましかったのだろう。ベンチ入りできない先輩からの執拗なプレッシャーが河野を襲った。
「多分、河野は誰にも相談しなかったと思いますよ。いや、できなかったと言った方がいいかな。たとえ相談されても誰も何もできなかったでしょう。あの時代の上下関係は本当に厳しくて、1年の半分以上は“しごき”でした。全員がそういう状態でしたから、誰も相談することも相談される余裕もなかったと思います」(大倉)

 河野は徐々に調子を落としていった。そして2年生になると、ベンチから外され、結局その年は1度も公式戦で投げることなく終わった。ケガをしていたわけでもないのに、1年間を棒に振ったことが河野は悔しくて仕方なかった。

 だが、3年にもなると上級生は4年生のみ。ようやく野球に打ち込むことができるようになった。本領を発揮し始めた河野は、瞬く間にチームの柱となった。その年、自身初となる日本代表にも選出され、河野は6月に開催された第12回日米大学野球選手権に出場した。

 日本が1勝2敗で迎えた第4戦、河野は先発に起用された。初めて日の丸を背負い、その試合が国際大会デビュー戦だったにもかかわらず、河野はほとんど緊張していなかった。それどころか、序盤から三振の山を築く快投を見せた。あれよ、あれよという間に9回まで投げ切ってしまった河野は、山口高志と並ぶ14奪三振の大会記録をマークした。当時、米国チームの中には後にメジャーリーグで活躍するマーク・マグワイアやシェーン・マックがいた。

「体はヒョロヒョロでしたけど、マグワイアもマックもパワーはすごかったですよ。一番嬉しかったのは、マグワイアからは3つの三振を奪ったことですね。三振の記録に気づいたのは9回2死になってから。“あと一つで新記録だ”って言われたんですけど、最後はファーストファウルフライでした(笑)」
 河野はその試合、3安打完封勝ちを収めた。プロのスカウトが彼に熱い視線を送っていたのは言うまでもない。河野自身もまたこの試合を機に、プロ入りを強く意識するようになっていった。

 その年の秋、河野は3試合連続完封勝ちを含む自身最多の6勝を挙げ、防御率0.90という好成績で最優秀投手とベストナインに選ばれた。さらに4年秋にも4勝0敗、防御率1.40をマークし、再び最優秀投手とベストナインに輝く。4年間でのリーグ通算成績は34試合に登板し、15勝3敗、防御率1.91、132奪三振。河野のプロ入りは確実と見られていた。

 しかし、フタを開けてみないことにはわからないのがドラフトである。どんなどんでん返しが起こっても何ら不思議ではない。河野もやはり自分の名前が呼ばれるまでは不安で仕方なかった。ほとんど緊張などしたことのない彼でさえも、前日の夜は眠れなかった。そして1984年11月20日、東京・ホテルグランドパレスで第20回新人選手選択会議が始まった――。

(第4回へつづく)






<河野博文(こうの・ひろふみ)プロフィール>
1962年4月28日、高知県幡多郡大月町生まれ。明徳高(現・明徳義塾高)から駒澤大学へ進学。大学3年時には日米大学野球選手権で14奪三振の大会新記録を樹立し、最優秀投手に選ばれた。85年、ドラフト1位で日本ハムに入団し、1年目から先発ローテーション入りを果たす。88年には最優秀防御率防御率(2.38)のタイトルを獲得。96年にFA権を行使し、巨人へ移籍。8月には14試合に登板し、4勝0敗1セーブ、防御率1.86の好成績を挙げ、月間MVPに輝くなど、貴重な中継ぎとしてリーグ優勝の立役者となった。99年オフに戦力外通告を受け、ロッテへ移籍。翌年、現役を引退した。2008年より独立リーグのBCリーグ・群馬ダイヤモンドペガサスのコーチを務めている。172センチ、85キロ。左投左打。

(斎藤寿子)





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