水戸黄門が最初から葵の御紋の入った印籠を取り出したらドラマにならない。耐えて耐えて耐え忍ぶから見る側は最後の最後の場面で留飲を下げることができるのだ。
 この3週間、どれだけの日本人がイチローの手のひらに乗せられ、踊らされたことか。伏線は東京ラウンドの最初のゲーム(中国戦)から張られていた。
 あまりの不振に「イチロー限界説」まで飛び出した。1億総イチロー評論家になって、とりとめのない議論が続いた。打って話題になるのがスターだとしたら、打てなくて話題になるのがスーパースターだ。日に日にイチローの頬がこけていく様がテレビ画面からもはっきり確認できた。

 第2回WBC最後の打席は延長10回表。今大会の44打席目でイチローは懐からついに印籠を取り出した。あたかも最初からシナリオが用意されていたかのような大団円。なぜ韓国バッテリーはイチローを敬遠して満塁策をとらなかったのか。もし、これまでの不振が敵の判断を誤らせたとしたら、長い時間をかけて周到に用意した仕掛けの成果だったと解釈するのがきっと正しいのだろう。

 千両役者は、しばしば見る者を海図なき航海に誘う。たとえば江夏豊。プロ野球史に残る名シーンと呼ばれる日本シリーズでの「江夏の21球」。クローザーとして登場した江夏が、もし最終回をピシャッと3人で抑えていたら、後世に語り継がれるドラマは生まれていなかった。無死満塁のピンチを切り抜けたのは確かに江夏の左腕だが、絶体絶命のピンチをつくったのも、これまた江夏の左腕なのである。

 スポーツにおける「役者」と「千両役者」の違いはどこか。あくまでも私見だが、それは「自作自演の物語」をつくれるか否かにある、と考える。もちろん最初から、それを意図しているわけではあるまいが、無意識のうちに大向こう受けする大団円を脳裏のスクリーンに描き、散らばったピースをひとつひとつかき集めるようにしてパズルを完成させていく。その作業ができる人間が「千両役者」なのだろう。43打席の葛藤と苦悩の末の決勝タイムリー。44打席目のセンター返しは、もう既に私の記憶の中では「名画」である。

<この原稿は09年3月25日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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