ノーコンと聞けば、真っ先に思い浮かぶのが一場靖弘だ。ストライクが入らない。四球で塁上を埋め、ストライクを取りにいったところを狙い打ちされる。4年間、その繰り返しだった。「再生工場」の異名をとる東北楽天・野村克也監督も、こと一場に関してはお手上げだった。

 いつだったか、一場に関して、こう語ったことがある。
「アマチュアの頃に“えい、気合いだぁ”という野球をやっていたから、野球に対して考える習性が身に付かなかったんです。
 一度、本人に『感覚』という字を書かせたことがある。オマエ、書いてみろと。とりあえず、字は書けました。“ひとつひとつ離したら、どう読む?”。僕は聞いたんです。“感じて覚えるだろう”と。
 残念ながら本人はキョトンとしていましたね。僕の考えですが、感性と頭脳はつながっているんです。そこに物足りなさを感じましたね」

 その一場が東京ヤクルトに移籍したしょっぱなのゲームで答えを出した。
 4月11日、横浜相手に5四球を与えながらも5回を無失点で切り抜け、セ・リーグ初白星をあげたのだ。
 楽天時代はノーコンがトラウマになっていた。
「四球を与えれば代えられる」と脅えていた。
 ピッチャーの一番の仕事は腕を振ることだが、それを忘れていた。ビビってはワンバウンドのボールを放り、野村監督を落胆させた。
 ヤクルトからの移籍交渉は一場にとっては渡りに舟だった。宮出隆自との一対一トレードで新天地に活路を求めた。
 聞けば、ヤクルトの荒木大輔コーチが野村監督に「一場を譲ってもらえませんか?」と打診し、そこからは話はとんとん拍子で運んだという。
 ヤクルトの監督が一場の明大の先輩にあたる高田繁だったことも、一場にとっては幸運だったと言える。
 セ・リーグでの初勝利後、一場は言った。
「(荒木コーチに)コントロールは求めないと言われて、気が楽になった」

 思い出すのは2001年、ヤクルトが日本一になったシーズンの入来智だ。制球不足などを理由に巨人を解雇され、テストを受けてヤクルトに入団した。
「あれだけのスピードボールがあれば、あとは僕が何とかする」
 当時、ヤクルトのホームベースを死守していたキャッチャーの古田敦也は語ったものだ。
 古田の好リードもあって、入来は10勝3敗、防御率2.85という好成績をあげ、チームの5度目の日本一に貢献した。
 一場の素質については誰もが一目置く。彼に足りないのはマウンド度胸だけだ。幸い、ヤクルトには横浜からFA移籍した相川亮二という経験豊富なキャッチャーがいる。初勝利の女房役も相川だった。
 一場が一皮むければ、ヤクルトはセ・リーグのダークホースに浮上してくるかもしれない。

<この原稿は2009年5月3日号『サンデー毎日』に掲載されたものです>

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