季節はずれの豪雨が降りしきる中、レースは始まった。13番枠から好スタートから切った6番人気のドリームハッチは3番手につける。泥のかぶらない好ポジションを得て、抜群の手応えで4コーナーを回り直線を向く。ゴールまで残り200メートル。内をすくって伸びてきたのは1番人気のシーフォーアイだ。本命馬に一度交わされかけたドリームハッチは騎手の激しいアクションに応えて、シーフォーアイを差し返す。激しい叩きあいの末、ドリームハッチのハナが前に出たところがゴール。4月25日、東京競馬場第7レース。見事な勝負根性をみせたドリームハッチの鞍上にいたのは鷹野宏史。この勝利が鷹野にとって、中央競馬で4つ目の勝利となった。
 騎手・鷹野宏史を10年以上前から知っている競馬ファンがいたら、その人は相当な競馬通といっていいだろう。毎週末、競馬場で馬券を買い続けているファンでも耳にしたことのない名前かもしれない。彼が24年間騎乗し、2000以上もの勝ち星を積み重ねてきた舞台は高知県高知市にある高知競馬場。いわゆる「地方競馬」所属の騎手だったのだ。

 競馬と無関係の世界で育った鷹野が初めて馬と出会ったのは、中学1年生の時。遠足で訪れた乗馬クラブでの出来事だった。その遠足ではクラブ関係者の好意で何人かの生徒が馬に跨がることができた。鷹野は幸運にも、代表の1人に選ばれた。

 初めて馬という生き物に跨った少年は「馬に乗ることって、かっこいい」と思った。それまでは野球やテニスなどに取り組むスポーツ好きの少年だった。しかし、体が小さかったため、どうしても身体能力に違いのある同級生には敵わなかった。だが、馬に乗ることは自分の小さい体でも、全くヒケをとらない。それどころか、自分の体格は馬乗りになるために、ピタリと合っていた。乗馬の魅力に取り付かれた少年は、すぐにそのクラブに入門することを決意する。

 クラブに通い、腕を磨き始めた鷹野は間もなくその才能を開花させた。中学在学中、高知県大会や四国大会で1位の成績を収める。この乗馬クラブで鷹野を指導していたのが、近くの高知競馬場で獣医を務めていた人物だった。その人物から騎手という職業を薦められた。そして、馬に乗ることが楽しくて仕方なかった少年は、山岡恒一調教師を紹介される。山岡は高知競馬で常にリーディング上位を争うトップトレーナーだった。中学3年になっていた鷹野は競馬学校を受験するため、山岡の下で手伝いをしながら、試験に備えた。この年競馬学校を受験したのはおよそ90人。うち合格者は20人だったが、鷹野は難関を見事に突破。2年間の学校生活を経て、高知競馬場の騎手となった。

 大きな壁があった、それぞれの競馬

 日本の競馬には大きく分けて2つの世界が存在する。それは中央競馬と地方競馬だ。

 中央競馬は毎週末の土、日に開催され、日本ダービーや有馬記念などのG?競走が行われている。テレビ中継で目にする機会が多いのは中央競馬だ。主催団体の日本中央競馬会(JRA)を農林水産省が管轄し、レースが施行されている。

 片や、地方競馬は各地方自治体が管轄し、週末に限らず全国18カ所の競馬場で毎日開催がある。羽田空港に向かうモノレールから見える大井競馬場は地方競馬の代表格にある競馬場だ。1970年代には、全国におよそ30カ所の地方競馬場があり、地元民のギャンブル場として親しまれていた。

 この2つの競馬は1990年代中頃まで、お互い交流を持つことはなかった。2つの世界で行き来できたのは競走馬のみ。地方競馬で活躍した馬は更なる飛躍を求めて中央の舞台へ挑戦することができた。代表的な存在は70年代に日本中から注目を集めたアイドルホース、ハイセイコーだ。彼は大井競馬場から中央へ移籍し、大レースで活躍した。

 しかし、馬の移籍を除くと、中央と地方の競馬は全く違うもの。当然のように、騎手になるための競馬学校も別。鷹野は高知競馬場で騎手になるために、地方競馬の騎手過程に進んだ。

 騎手になりたての頃、鷹野は中央競馬と地方競馬の違いを知らなかった。
「そもそも、高知以外に競馬場があることも知らなかったくらいですから(笑)。馬に出会ったのが地元の乗馬クラブ。単に馬に乗ることが好きで、乗馬にのめりこみ山岡先生を紹介していただくまで、競馬のことをよく知らなかった。騎手になるならば、高知で馬に乗るのが当たり前だと思っていました」

 地方競馬の騎手学校を優秀な成績で卒業した鷹野は1982年4月、高知競馬のジョッキーとしてデビューした。初勝利を挙げたのはデビューから3戦目のこと。非常に喜んだのと同時に「ここから騎手人生が始まるんだ」と、心の中で覚悟を決めた。

 デビューの年に44勝を挙げ、高知競馬の騎手ランキングで7位に入る。新人騎手として上々のスタートを切った鷹野は4年目の85年、高知競馬場のリーディングジョッキー(年間最多勝利騎手)の座に就く。若干21歳で高知のトップジョッキーとなったのだ。

「初めてリーディングを獲ったときには、それまで10年以上連続でトップだった打越初男さんを抜いてのリーディングでした。打越さんといえば、僕にとっては憧れの存在でしたから、それはもう嬉しかった。90年にもリーディングジョッキーになりましたが、この頃の高知競馬には素晴らしいジョッキーがたくさんいました。金沢から移籍してきた徳留康豊さん、その後に北野真弘騎手がデビューして、中越豊光騎手も入ってきた。僕も含めて4人で、毎年リーディング争いをしていましたね」

 スターの誕生で盛り上がる中央競馬

 鷹野が高知でリーディング争いをしている頃、もうひとつの世界である中央競馬では2つのビッグスターが登場していた。“芦毛の怪物”オグリキャップと天才騎手・武豊だ。連戦連勝を続けるスターホースと、次々と記録を塗り替える新人騎手の活躍に、今まで競馬場に足を向けなかった若者や女性までもが熱狂した。いわゆる“競馬ブーム”がバブル景気に沸く全国を覆いこみ、中央競馬の人気は急激な上昇カーブを描いた。88年には年間の売上が2兆円を越え、その数字は97年、4兆円にまで届いた。競馬ブームによって、それまではギャンブルとして見られていた競馬はファッショナブルな存在として、さらに一スポーツとして市民権を得ていった。

 中央の競馬ブームの勢いを借りて、地方競馬も91年には9800億円となりピークに達する。だが、一般的に競馬といえばやはり中央競馬のことを指した。高知で騎乗していた鷹野の目には盛り上がりをみせる中央競馬の様子をどのように映っていたのだろうか。

「羨ましいという感覚はなかった。ただただ、世界が違うという感じでした。同じ競馬でも、全く違う世界。野球でいえば、こちらは片田舎のマイナーリーグで、あちらは大都市のメジャーリーグとでも言ったらいいのかな……。ただ、野球ならばマイナーリーグにいても、メジャーへの夢を見ることができますが、僕らと中央競馬は全くつながりがない。だから、自分たちの競馬とは完全に切り離して見ていました」

 高知で顔を合わせる騎手仲間でも、中央競馬の盛り上がりについて触れる者は皆無だった。そう、それは“全く別の世界の出来事”だったのだ。

(第2回につづく)
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<鷹野宏史(たかの・ひろふみ)プロフィール>
1964年10月4日、高知県高知市生まれ。17歳で高知競馬場からデビュー。85年、初のリーディングを獲得、90年には2度目のリーディングジョッキーとなる。05年に高知競馬史上2人目の2000勝を達成。同05年から中央競馬騎手試験を受験し、08年2月、4度目の受験で合格。43歳で晴れてJRA騎手となる。地方通算14345戦2190勝(高知競馬歴代2位)、中央通算197戦4勝(09年5月4日現在)。160センチ、49キロ。美浦・二ノ宮敬宇厩舎所属。







(大山暁生)
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