動物の本能だろうか、夜の闇は人を不安にさせる。見知らぬ土地の闇は、特にそうだ。
 成田空港を出た飛行機が、バルセロナの空港に着いた時には夜の8時を回っていた。空港に隣接した駅から電車に乗り、東へ向かった。
 窓の外は真っ暗で何も見えない。時折照らされる光で、海沿いを走っていることだけは分かった。

(写真:ジョレト・デ・マールのグラウンドは人工芝に張り替えられていた)
 ブラネスの駅についた時は23時を回っていた。駅の前には2台のタクシーが待っていたが、すぐに客を乗せて出て行ったしまった。やがて、駅舎には鍵が掛けられ、迎えのない乗客たちは外に放り出された。
 五月とはいえ肌寒かった。
<なんでこんなところまでサッカーをしに来たのだろう>
僕は首を振った。物好きな男だと思った。
 体調は最悪だった。
 出発前、古傷でもある右足太ももに肉離れを起こしていた。調子を上げようと、週に3日もフットサルをしたので、身体が悲鳴を上げたのだ。
 街に数台しかないタクシーが、駅とホテルをピストン輸送していた。しばらく待って、タクシーに乗り、ジョレト・デ・マールにあるホテルにたどり着くことができた。
 フロントで尋ねると、「フランスからの団体客はディスコに出かけた」という。行ってみると、みんなは赤い顔をしており、久しぶりと僕に抱きついてきた。時差ぼけもあって、僕はビールを一本飲んだだけでホテルに引き上げることにした。

 翌朝−−。
 第1試合は、後半途中からフォワードに入った。右に開き、ボールを待った。足の痛みを気にして、なるべく簡単にボールをはたくことを心がけた。ミスはしなかったが、得点に絡まめなかった。試合は1対0で勝ったものの、達成感はなかった。
<リスクをとらないので、日本人のフォワードは駄目なのだ>
 いつも自分が原稿に書いている言葉が頭をよぎった。

 2日目、僕たちのモンペリエ・スポーツクラブの調子は悪かった。2日連続で朝まで飲んでいる人間は少なくなく、試合開始から動きが悪かったのだ。
「ケンタ、行こう」
 動きの悪い前線の選手を見て、マニュエルが僕を呼んだのは前半途中だった。
 中盤でキープできないので、フォワードまでボールが届かない。みんなの調子の悪い時こそ、きちんとボール保持したほうがいいだろう。
 僕は少し下がって、ボールを受けた。後ろから相手選手が来ているのを感じて、反転して抜こうとした瞬間だった。
 足元に衝撃を感じた。
 僕は横に飛ばされていた。180センチ半ばで、体重は90キロほどありそうな相手のディフェンスが僕の足を蹴り上げてボールを奪ったのだ。
 日本ならばファールになるプレーだった。フランス人のサッカーは荒っぽい。僕はスペースを見つけて走り、接触を避けるしかない。人工芝に転がりながら僕は考えていた。
 前半終了間際、僕が中央で待っていると、中盤から長いボールが飛んできた。右側をもう一人のフォワードのロンクが走っているのが見えた。僕はダイレクトで右サイドのスペースに出した。ロンクはコーナーサイド近くでボールを止めて、真ん中にクロスボールを挙げた。
 相手のディフェンスは3人残っていたが、ロンクがサイドに流れたため、隙間ができていた。クロスボールに僕は飛びつき、頭で合わせた−−。
 ゴール。
 ベンチにいた全員がたちあがって喜んでいた。ピッチにいた仲間が僕の身体を叩いた。
 僕は広山望がパラグアイのセロポルテーニョ時代に話していた時の言葉を思い出していた。
「ゴールを決めた時、初めてチームの一員になれたって感じがあった」
 まさにその通りだった。
 レベルは違うがサッカーはサッカーである。ゴールは全てを解決してくれるのだ。
 試合は2対1で勝利。その後も、スポーツクラブはそのまま勝ち進み、優勝することができた。
 大会終了後のパーティで、僕は特別表彰選手に選ばれた。優勝カップを掲げて僕は幸せだった。
 わざわざ欧州までサッカーをしに来たことは正解だったと思った。肉離れの痛みは再発しそうであったが、もはや気にならなかった。
 宴は朝まで続いた。ジョレト・デ・マールの夜の闇が僕を包み込んでいた。
(写真:決勝の後、控え室にて)


 翌2006年は単行本の発売と重なっていたため参加できなかったが、2007年大会には参加した。
 この時のチームには、元フランス代表のジェローム・ボニセルがいた。
 ジェロームはデポルティーボ・ラコルーニャ、フラム(稲本潤一とチームメイト)、オリンピック・マルセイユ、ボルドーでプレーしていた左利きのディフェンダーだった。
 ジェロームは足技が飛び抜けて巧いわけではなかったが、勝つために何が必要か知っている選手だった。身長も大きくない。ただ、トップクラスのプロ選手が持っている、精神的、肉体的な強さがあった。
 またクリスというルーマニア人もいた。彼は、ステアウア・ブカレストでプレーしていたが、怪我で現役を断念したという。ニームの傭兵部隊に入り、フランス国籍を得ていた。ドリブルが巧みで、ブラジル人のようなプレーヤーだった。
 2008年の大会には、カメルーン代表としてワールドユースに出ていた男が参加した。身長はそれほどでもないのだが、大きなフランス人に当たられてもびくともせずボールをキープすることができた。彼のおしりはエドガー・ダービッツを思い浮かべる程、大きかった。
 毎回、様々な選手がスポーツクラブの一員として参加し、様々なことを学ばせて貰った。
(写真:祝勝会では、カップを掲げて大騒ぎだった。左がマニュエル、中央がロンク)


 ただ、一つだけ−−まだ果たしていないことがある。
 2007年の大会前、ある男が我らが『モンペリエ・スポーツクラブ』に加わるかもしれないと聞いていた。
 その男とは、モンペリエの生んだ最大のスター、ローラン・ブランである。
 彼は、モンペリエでプロ選手としてのキャリアをスタートした。その後、バルセロナやオリンピック・マルセイユ、インテル・ミラノ、マンチェスター・ユナイテッドでもプレーしている。
 98年、地元フランスで行われたワールドカップに出場し、キャプテンも務めた。身長190センチを越える長身でフィジカルも強く、足元の技術も巧い。知性もある。ディフェンダーの理想のような選手だった。
 マニュエルがブランに会い、スポーツクラブに入るように誘ったところ、快諾してもらったという。しかし、急遽予定が入り来られなくなってしまったのだ。
 後から分かったのだが、フランス一部リーグのボルドーの監督就任の話が進んでいたのだ。
 2008年の大会が終わった後のことだ。
 前年に、ブランが参加できなくて、僕がよほど残念そうな顔をしていたのだろう。日本に帰ろうとしていると、マニュエルが袋を渡した。
「これはお前にあげる」
 袋を開けると、赤い色のモンペリエのユニフォームだった。背番号五番だった。
「これは?」
「ブランのユニフォームだ」
 ブランが、モンペリエのクラブ創立30周年記念試合に出た時に着用したユニフォームだった。
「試合の時に彼から、貰ったんだよ。お前にあげる」
「そんな大切なものはもらえないよ」
 僕は袋を返したが、彼は首を振った。
「俺はいつでももらえる。同じチームなんだから」
「僕もそうだ」
「確かに」
 嬉しそうにマニュエルは、僕の肩を叩いた。
「とにかくこれはお前にあげるよ」
 マニュエルはにっこり笑った。
 このブランのユニフォームは僕の宝物となった。
(写真:ブランのユニフォームは僕のコレクションの中でも最も大切なものの一つである)

 今年、僕は仕事の都合で大会に参加できなかった。しかし、仕事でフランスを訪れる時には時間を作ってモンペリエに行こうと思っている。
 そこには僕のチームがあるのだ。
 広山望も引退後は、このスポーツクラブに入ることになるだろう。しかし、日本人初出場と初ゴールの称号は、僕のものである。それが僕の誇りである。 

(おわり)


田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクションライター。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。休職して、サンパウロを中心に南米十三ヶ国を踏破。復職後、文筆業に入り著書多数。現在、携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。最新刊は『楽天が巨人に勝つ日―スポーツビジネス下克上―』(学研新書)。




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