北海道日本ハム・小谷野栄一が放った打球は快音を残してライト方向に飛んだ。その瞬間、マウンド上にいた松家卓弘は肝を冷やした。
「しまったっ!」。平常心で投げているつもりでも、球は本来の力をもっていなかった。
 打球はかろうじて右翼を守る吉村裕基の正面をつき1アウトを奪う。
「しっかりと放れっ! こんなことでは打たれてしまうぞ」
 自分自身に心の中で言い聞かせた。続くボッツをセカンドフライ、糸井嘉男をショートゴロに打ち取り8回裏を3人で打ち取った。
 プロ入り5年目で迎えた初登板。彼の初マウンドは打者3人を切って取る上々のものだった。

 現在、松家が身に纏っているユニフォームは青いベイスターズカラーのものではなく、鮮やかな水色を基調としたものだ。6月10日対北海道日本ハム戦にプロ初登板を飾った松家はその3週間後、28日に登録を抹消され、現在はファームに戻っている。横浜の2軍は周知のとおり湘南シーレックスと名乗り、横須賀を拠点に活動している。1年目以来のベイスターズでの生活は3週間で一旦終わったが、虎視眈々と再昇格の機会を窺っている。

 松家の初登板は、多くの投手のそれとは比べ物にならないほど注目を集めた。スポーツ新聞では大きな活字で堂々と扱われる。破格の扱いだった。それには理由がある。彼の経歴が多くの投手とは異なったのだ。“出身校・東京大学”。プロ野球選手を過去に4名しか輩出してこなかった最高学府出身という肩書きがドラフト指名時から松家について回ったのだ。

 キャッチャーから始まった野球人生

 初めて本格的に野球と接したのは小学校4年生のとき。地元の少年野球クラブに入った松家は入団してすぐにレギュラーを獲得した。彼の最初のポジションはキャッチャーだった。4番を任され、攻守に渡って活躍した。翌年にはピッチャーとしてクラブを牽引することになる。ピッチャーになった理由は、それまでのエースが転校することになったから。ここからピッチャー一筋の野球人生がスタートする。当時のエースが転校していなければ、全く違う人生を歩んでいたかもしれない。

 地元の国立大付属中に進学し、最上級生となった2年の秋からエースの座に就く。そこで香川県大会に優勝。強豪校から誘いがあったものの、高校は地元の高松高校に進学した。松家の速球はここでもチーム随一。1年でエースとなり2年秋の県大会で準優勝、四国大会ではベスト4に入った。3年の夏には3回戦で敗退したものの、松家はこの頃にはプロのスカウトから注目を集める存在となっていた。

 プロへの憧れは当然のようにあったが、高校を卒業してすぐプロ野球の世界に足を踏み入れるまでの自信が彼の中にはなかった。「大学で頑張ればプロに行けるかもしれない。だったら試してみよう」。そう心に決めた松家は次なる目標を東京六大学の聖地、神宮球場に定めた。その日から猛勉強が始まった。

 そもそもなぜ、六大学を目指したのか。そして、東京大学に入学したのか。そのことについて松家は「大学野球は六大学でやるものだと思っていた」と口にした。

「もっといえば六大学しか知らなかったという方が正しいかもしれません(笑)。大学はどうしても東大ということではなかったんです。受験勉強を始めた時からそうでした。ただ、どうせ勉強するなら“一番のところを目指してやろう”とは考えていました。だから、六大学の中で、一番難しい東大を目指したんです」

 気持ちを奮い立たせた4年の春秋シーズン

 猛勉強が実り、現役で東大に合格する。慶応にも一般入試で合格していた。プロを目指すのであれば、慶応を選択するほうが妥当といえる。数多くのプロ野球選手を輩出している慶応と、六大学で万年最下位の東大ではレベルが違いすぎる。松家は迷いながらも東大を選択した。「野手なら話は違うが、ピッチャーは1人でも練習はできる。環境は関係ないと思ったんです」。それは常に1番を目指してきた松家らしい選択だった。

 目標だった六大学の舞台に立った松家だが、厳しい現実が待っていた。1年秋から早くもエース格として神宮のマウンドに立ったが、東大では思うような活躍はできなかった。チームはいくら負けを繰り返しても「負けて当たり前」という雰囲気だった。松家のモチベーションも下がっていた。「もう野球を辞めよう」。そう考える時期もあった。特に3年時には右肩を傷め、ほぼ1シーズンを棒に振った。その時、投げられない辛さを味わった松家は一大決心をする。

「このままでは終われない。絶対にプロになってやる」

 ケガが完治した松家はこれまでにないほど真剣に野球に取り組んだ。そして見事に復活を果たす。4年春に神宮初勝利を挙げた。秋には春優勝の明治を2安打に抑え、見事な完封勝利を飾る。その潜在能力が一気に開花した1年だった。大学では通算25試合に登板し、3勝17敗。これが松家の神宮での記録だった。

 そして迎えた04年ドラフト会議。松家は横浜から9巡目の指名を受ける。東大出身として5人目のプロ野球選手が誕生した瞬間だった。

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<松家卓弘(まつか・たかひろ)プロフィール>
 1982年7月29日、香川県香川市出身。高松高校時代、2年秋の四国大会でベスト4.東京大学に進学し、2年春に初登板、4年春に初勝利を上げた。大学通算25試合に登板し3勝17敗。04年ドラフト9巡目で横浜ベイスターズに入団。1年目に1軍に昇格するものの、2年目以降は2軍での生活が続く。5年目の09年6月7日に1軍に登録され、6月10日対北海道日本ハム戦でプロ初登板を果たす。身長184センチ、85キロ。右投げ右打ち。背番号32。






(大山暁生)
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