今年、巨人は球団創設75周年を迎えた。32回のリーグ優勝、20回の日本一(2リーグ制以降)は、いずれも球界最多だ。
 とりわけ1965年から73年にかけてのV9は“不滅の金字塔”としての輝きを、今なお放っている。

 V9巨人を指揮したのが川上哲治氏である。川上野球といえば「日本最初の管理野球」というイメージがあるが、当時の関係者の多くは「巨人ほど風通しのいいチームはなかった」と語る。
 たとえばセカンドを守っていたバイプレーヤーの土井正三氏はこう言う。
「僕は誰よりも向こう意気が強かった。巨人に入団した頃は、いわゆるヤンチャ坊主でした。そんな僕を川上さんは掌の上で遊ばせてくれました。
 その川上さんの口ぐせは“世界に多くの人々がいる中で、我々は同じ目標に向かって全員が力を合わせて仕事をする。これは奇跡に近い。このつながりを大切にしよう”というもの。他のチームの監督が“打倒巨人”を目指す中で、川上さんはひとり遠くを見ていた。勝敗を超越したところにいる人でした」

 その土井氏と2遊間を組んでいたショートの黒江透修氏の川上評はこうだ。
「川上さんというと“管理野球”とか“哲のカーテン”いったフレーズから“怖いオヤジ”というイメージをもっている方が多いでしょうが、あれだけ開けっ広げの性格の方は珍しい。
 もちろん勝負に対する執念は凄かった。しかし、それはあくまでもグラウンドにおいてであって、私生活の面まで管理するようなことはしなかった。酒にしろ麻雀にしろ、相手探しをしていたのは川上さんのほうでしたから。
 また川上さんはアイデアマンでもありました。おそらくベンチの中で選手と賭けをやっていた監督はあの人だけでしょう。
 賭けの対象は私のヒット数。簡単にいうと1試合に2本ヒットを打ったら私の勝ち、ノーヒットに終わったら私の負け(2打席以下、1安打の場合は引き分け)というもので、さらに3本ヒットを打った場合とホームランを打った場合は賭け金が2倍に跳ね上がった。
 1試合の賭け金が3000円だったから、当時の相場からすると、勝てば結構、いい小遣いになったものです。
 川上さんがこの賭けを始めたきっかけは、私の性格にありました。というのも、当時の私は何か刺激があったほうがヒットを打つ率が高く、これが川上さん流の選手操縦法だったと気付いたのはコーチになってからでした」

 川上氏を「日本一の監督」と評価しているのが南海時代、何度も巨人に煮え湯を飲まされた野村克也(現東北楽天監督)氏である。
 野村氏が南海のプレーイング・マネジャー時代、川上氏から電話でトレードの打診があった。
「長嶋(茂雄)もぼちぼち衰えが見えてきたから、フル出場は無理だろう。後半は休ませながらやらせないといけないから(3番の)富田勝をくれないか」
 川上氏は野村氏に単刀直入に切り出した。
「なら(大型サウスポーの)新浦寿夫をください」
「いや、新浦は将来うちのエースだから出せない。他のでどうだ。たとえば山内(新一)とか?」
「えぇ、山内? だって彼は前年1勝もしていないでしょう。そんな選手とウチの主力の富田を代えるなんて会社に説明できません」
「そうか、じゃあ1回、東京に出てくる機会はないかね?」
「ありますよ。では、東京で」
 電話での大胆な交渉以上に野村氏が驚いたのが、川上氏の次の一言だった。
「ところで、東京での交渉では長嶋君も同席させてもらいたい」
 トレードの交渉の場に選手も同席させるというのは前代未聞だ。返事をしぶっていると、川上氏はこう畳みかけてきたという。
「長嶋君は来年からウチの監督になる。監督はチームの指揮を執るだけでなく、トレードから年俸の査定までいろいろなことをやらなくてはならない。それを今から少しずつ経験させようと思っているんだ。キミには迷惑だろうが、球界のためだと思ってひとつ協力してくれないか」
 自分が勝つことに汲々としている監督が多い中、川上氏はチームの将来のみならず球界の将来まで見据えて行動している――。その姿に若き日の野村氏は指揮官としての理想像を見た思いがしたというのである。

 川上哲治氏にインタビューしたのはいまから20年前のことだ。当時は西武ライオンズの黄金期で、森祇晶元監督の「管理野球」が幅を利かせていた。
「川上さんの遺産ですか?」との問うと、ニヤッと笑ってこう答えた。
「管理野球というのは私の発明品。もし私がいま監督だったら、もっと違った野球をするよ」
 肥後もっこすの気概を見る思いがした。

<この原稿は2009年9月号『Voice』に掲載されたものです>

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