2009年6月14日、全日本大学野球選手権・決勝。法政大学(東京六大学)が富士大学(北東北大学)を5−1で下し、14年ぶりの日本一に輝いた。マウンドでは優勝の立役者となったエースが仲間とともに喜びを爆発させていた。エースの名は二神一人。今秋のドラフトでは上位での指名が予想され、大学生投手陣では今最も注目されている大型右腕だ。
「最後のマウンドもいつも通りに上がりましたよ。あそこまでいったら、何でもなかったですね」
 飄々とした表情でそう語る二神。自身、人生初の優勝を目の前にしても、全く緊張しなかったというのだから、その強心臓ぶりは容易に想像できる。
 決勝は、法大にとって苦しい試合となった。7回まで富士大のエース守安玲緒にわずか1安打に抑えられ、攻撃の糸口をつかむことすらできずにいたのだ。そんな悪い流れをかえ、逆転劇を呼び起こしたのが二神だった。0−1と1点をリードされた6回から2番手としてマウンドに上がった。4連投(うち2試合は完投)の疲れも見せず、ほぼ完璧なピッチングで富士大打線を抑えていった。

 そんなエースの力投に終盤、打線が奮起した。8回に犠牲フライで同点に追いつくと、9回にはそれまで苦戦していた守安を攻略し、5安打4得点と一気に試合を引っくり返した。その裏、二神はいつものように涼しい顔でマウンドへ上がると、簡単に2死を取った。そして最後の打者の打球はセンターへ――。亀谷信吾が打球をグラブに収めると同時に、女房役のキャッチャー石川修平が一目散にマウンドへ駆けつけ、二神に飛びついた。二神もそれに応えるかのように石川を抱きかかえる。「オレたちが日本一だ!」とばかりに石川は、人差し指を立てた右腕を高く突き上げた。2人にとって、それは悔しさを晴らした瞬間でもあった。

「リーグ戦では優勝が決まる瞬間、僕も石川もグラウンドにはいなかったんです。僕はその前日に不甲斐ないピッチングをして、その日は登板していなかったですし、石川も途中交代させられていた。だから、日本選手権では絶対に優勝をグラウンドで迎えようって石川と言っていたんですよ。その通りに優勝の瞬間、二人ともあの場所にいることができた。『あぁ、今までやってきてよかったなぁ』と思いました」

 優勝までの4試合、最も苦しい試合となったのが準決勝の関西国際大(阪神大学)戦だ。調子自体あまりよくなく、球が走っていなかったという二神だったが、7回まで1点に抑えていた。そんな中、終盤にアクシデントが起こった。二神はボールを握る際、親指の腹ではなく、親指の内側で支えて投げる。そのため、球数が増えるとその親指の内側に大きな水ぶくれができてしまうのだ。いつものリーグ戦なら登板間隔が空くため、ほとんど影響はない。だが、日本選手権のような短期決戦ではそうはいかない。今大会は2回戦から準決勝まで4日間で3連投していた。

 8回途中、水ぶくれがひどくがなったため、応急処置で一度、ベンチに下がった。この時、法大の金光興二監督は二神をこのまま続投させるかどうか迷ったという。だが、二神は自ら続投を志願し、マウンドへ上がった。そして、最後まで投げ切り、9安打を打たれたものの2失点に抑えてみせた。そこにはエースとしての貫禄が漂っていた。

 その大会、二神は全4試合に登板し、3勝を挙げた。MVP、最優秀投手賞に輝いた彼には今、プロ野球スカウトからの熱い視線が注がれている。このままケガすることなく順調にいけば、今週のドラフトの目玉になることは間違いない。しかし、二神に浮かれた様子は微塵も感じられなかった。
「みんなで勝ち取った勝利です」
 試合後の優勝インタビューで二神はそう答えた。仲間を思いやる彼らしい言葉だった。

 そして、それは母親の真智子にとっては何よりも嬉しい息子の成長に思えた。
「よく、雑誌やインターネットの記事なんかで、一人が『周りに支えられて今の自分がある』なんて答えているんですよ。そういうのを読むと、“あぁ、大人になっているなぁ”って思うんです。今回の優勝にしても、自分にうぬぼれている様子はないので安心しました」

 一方、「日本一になって、プロからも注目されて……。少しは調子に乗っているかなぁと思っていたら、全然変わっていなかった」と語ったのは高校3年間、同じピッチャーとしてライバルでもありよき親友でもあった木下裕矢だ。現在、大阪で医学療法士として働いている木下は、親友の結果を細かくチェックし、勝ち試合には必ずといっていいほど電話をするという。日本選手権で優勝しても、二神との会話はいつもと全く変わらなかった。それが木下には嬉しかった。

 思い出は1試合14四死球の大記録

 現在、阪神などからドラフトの指名候補としてリストアップされている二神。「自慢するようなものは何もない」と自らは謙遜するが、150キロの速球はもちろん、マウンド度胸も一級品だ。そして、特筆すべきことはこれまで大きなケガが一度もないこと。ケガに強いというのはアスリートにとって何より重要だが、その理由を二神はこう述べた。
「体が丈夫なのは子どもの頃、田舎に住んでいたからかもしれませんね。海や山といった大自然の中で遊んでいましたから」
 果たして、二神の育った環境とはいったいどんなものなのか――。

 高知県の西南端に位置する幡多郡大月町。約7割を山林が占め、南には太平洋を望むことができる自然豊かな町だ。二神はそこで生まれ育った。生まれたときの体重は3500グラムと大きく、子どもの頃から風邪ひとつひかない丈夫な子どもだった。母親の真智子には二神が熱を出して学校を休んだ記憶がないほどだ。

 幼少の頃の二神はとにかく遊びが大好き。何か好きなものを見つけると、それだけに集中する“凝り性”だったという。
「一度、ハマってしまうと、もうそれにばかり夢中になっていましたね。コマにはまれば毎日コマで遊んでいましたし、ミニ四駆の時にはすごく凝っていましたし……」と母親の真智子は電話口の向こうで微笑んだ。

 そんな二神少年が最初に興味をもったスポーツはサッカーだった。しかし、近くにサッカーチームはなく、あったのは隣の小学校のソフトボールチーム。従兄がそこに入っていたこともあり、両親にすすめられるかたちで二神はそのソフトボールチームに入った。小学校4年の時だった。

 2つ違いの弟と一緒に3キロの道のりを自転車で通った。とにかく練習に行くことが楽しかった。というのも、二神の通っていた小学校は全校生徒わずか6人。そんな環境で育った二神にとっては、たくさんの友達と遊ぶことができるソフトボールの練習は何よりも魅力だったのだ。そして自然とソフトボール自体にもおもしろさを感じるようになっていった。

 中学では軟式野球部に入った。小学校よりも人数は増えたが、それでも同じ学年の野球部員はわずか4人だった。1年の頃の主な担当は雑用係。守備練習では内野も外野もやった。2年になると、大月町の中学校が合併し、5つあった中学校が1つになった。無論、野球部員も増えた。二神が“遊び”ではなく、本格的に“野球”を始めたのはこの頃だったようだ。

 小学校のソフトボールでもピッチャーを経験していた二神は、自然と中学でもピッチャーとなった。決して強いといえる学校ではなかったが、中学3年になると二神は周辺の地域では「ボールが速い」と評判のピッチャーとなった。そして同じようにして速球派として知られていたのが高知中のエース木下だった。二人は一度も言葉を交わしたことはなかったが、お互いにどこかで意識し合っていた。

「球は速いが、とにかく四死球が多かった」と木下は中学時代の二神の印象をこう語った。それを物語る一つの試合がある。それは最後の夏の県中学野球大会、ベスト16進出を決めた3回戦だ。この試合、二神が打たれたヒットは内野安打の1本だけ。しかし、5失点を喫した。しかも初回には4点を奪われている。その原因は14個もの四死球だった。それでもなんとか大月中学が勝つことができた。その要因は、やはり二神だった。打者としては4番だった彼は自ら5打点をたたき出す活躍を見せたのである。
「一人で点を取られて、一人で打って……。ほんと、一人相撲の試合でした(笑)」
 今とは想像もつかない二神の姿がそこにはあった。

(第2回につづく)

<二神一人(ふたがみ・かずひと)プロフィール>
1987年6月3日、高知県出身。小学4年からソフトボールを始め、中学では軟式野球部に所属。高知高3年の夏は県大会決勝で敗れたものの、明徳義塾の辞退を受け、甲子園に代替出場。初戦で日大三(東京)に敗れた。法政大学では1年秋にリーグ戦デビューを果たし、昨年から先発投手の一角を務める。今年の春季リーグでは5試合に登板し4勝を挙げ、2006年春以来のリーグ優勝に貢献。日本選手権では全4試合に登板し、14年ぶりの日本一の立役者となった。183センチ、82キロ。右投右打。

(斎藤寿子)





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