2005年8月4日。その日、二神一人は次なるステージ、法政大学のセレクションを受けるため、夜行バスで東京へと向かうことになっていた。寮で一人準備をしていると、突然、驚愕のニュースが舞い込んできた。
「明徳義塾、甲子園出場辞退」
 二神は耳を疑った。聞けば、明徳と入れ替わり、自分たちが代替出場するという。あまりの突然の出来事に事情をうまくのみこむことができなかった。午後、選手全員に招集がかかり、改めて監督から代替出場することが説明された。選手たちは皆、困惑の表情を浮かべていた。だが、二神たちに驚いている暇はなかった。甲子園開幕までわずか2日しか残されていなかったのだ。
 母親の真智子の携帯電話が鳴ったのは、お昼前だった。見ると、息子の一人からだった。
「明徳が出場辞退になったから、オレらが甲子園に行けるみたい……」
 もちろん、明徳の選手たちのことを考えれば、複雑な気持ちもないわけではなかった。だが、息子の出場については素直に喜びの感情が沸いた。
「子どもの頃からが一人が目指してきた夢の舞台ですからね。どんなかたちでも、やはり甲子園に出場できることは嬉しいと思いましたよ」
 しかしその時はまだ、選手たちは喜びよりも不安の方が大きかった。明徳義塾と死闘を繰り広げた決勝戦は7月24日。惜しくも延長戦の末に敗れ、3年生部員は引退した。翌日からは、それぞれ思い思いの夏休みを過ごしていた。後輩の練習を手伝っていた選手もいたが、実家に帰省するなどした選手はほぼ野球とは無縁の生活をしていた。二神は大学のセレクションを受けるため、ほぼ毎日ピッチング練習をしていた。とはいえ、彼もまた実戦からは遠ざかっていることに変わりはなかった。

「甲子園に出場することになっても、みんなワクワクという感じではありませんでした。特に野手は引退後、バットを振っていなかったと思うので、やっぱり不安は大きかったと思います」 
 夕方、選手たちは10日間のブランクを必死で埋めようとするかのように、グラウンドで自主練習を始めた。代替出場とはいえ、高知高は全国優勝の経験もある名門校。24年ぶりの出場に沸く大勢のOBの顔に泥を塗るわけにはいかなかった。いや、それ以上に出るからにはやはり勝ちたかった。徐々にボールやバットを握る選手たちの手にも力が入っていった。
 翌日、お昼に学校を出発した高知高は、その日の夕方に甲子園付近の宿舎に入った。そこは前日まで明徳のナインたちが宿泊していた所だった。複雑な思いはあったが、感情に浸る暇はない。開幕は明日に迫っていた。

 忘れられないホームラン

 8月6日、第87回全国高校野球選手権大会の幕が切って落とされた。開会式での入場行進、高知高の選手たちが姿を現すと、スタンドから拍手の嵐が巻き起こった。県大会準優勝での出場に対する複雑な思い、実戦から遠ざかっていることへの不安……。18歳の少年たちが抱えている気持ちを察するかのように、温かいエールが送られた。
 高知高の初戦は幸いにも大会第5日に組まれていた。時間の許す限り、選手たちは練習に励んだ。「県で優勝もしていない自分たちが出場するなんて……」「なんで、今さらになって……」。そんな思いがあったことは確かだった。しかし、この時にはもうそんなことを口にする者はいなかった。皆、既に勝負師の目になっていた。目の前の試合に勝つこと。頭の中にあるのはそれだけだった。

 10日、高知高は初戦を迎えた。相手は4年前の夏、全国制覇を成し遂げた関東の雄・日大三高。その年も強打を誇り、優勝候補の一角に名を連ねていた。
二神は初回こそ無難に抑えたものの、2回裏、日大三の打線につかまった。先頭打者を死球で出すと、送りバントとヒットで1死一、三塁。ここで日大三はスクイズをしかけ、1点を先制する。さらに2死二、三塁となり、打席には1番・江原真輔(東洋大)。バッテリーが最も警戒していたバッターだった。
「カキーン」。
 甲子園球場に快音が鳴り響いた。江原の打球はグングン伸び、バックスクリーン右へ。試合を決定づける特大の3ランだった。今でもこの一発は、二神にとって最も忘れられないホームランとして記憶されている。
「インコースを狙って投げたストレートが、ちょっと中に入ってしまった。確かに甘い球でしたが、簡単に投げた一球ではなかった。自分の中でちゃんと意識して投げた球だったんです。それをいとも簡単に一番深いところにもっていかれて……。それまで一度もそんな打球を飛ばされたことはなかった。全国にはこれだけ遠くに飛ばすバッターがいるんだな、と衝撃を受けたことを覚えています」

 いきなり全国のレベルを見せつけられた二神だったが、それで意気消沈することはなかった。逆に、「打たれてスッキリした」という二神は、本来のテンポのいいピッチングを取り戻していった。3回以降は、ランナーを一度もスコアリングポジションに進めることなく、7回まで無失点に抑えてみせた。打線も5回表、エラーで先頭打者を出すと連打を浴びせ、無死満塁と絶好のチャンスをつくった。打席には二神。アルプス席からの3000人を超す大応援団の声援に後押しされるかのように、二神は一、二塁間を破るタイムリーを放った。さらに次打者の内野ゴロの間にランナーが返り、高知は2点差に詰め寄った。
 しかし8回裏、二神は先頭打者の4番・多田隼仁(明治大)にダメ押しの一発を打たれた。そしてこれが、二神にとって高校最後の一球となった――。島田達二監督から投手交代が告げられ、高知高は2番手ピッチャーに替わった。だが、この回、さらに1点を追加され、その差を4点に広げられる。残された攻撃チャンスはあと1イニングのみ。応援してくれている人たちのためにも、なんとか粘りを見せたいと思った。しかし、打線の援護に勢いづいた相手エースをとらえることができず、ランナーを出せないまま、簡単に2死を取られた。そして、最後の打者のバットが空を斬った瞬間、高知高の夏が終わった。

「選手たちは素晴しい試合をしてくれた」
 そう言って島田達二監督は選手を褒め称えた。代替出場が決定してからわずか1週間、ただただ準備に追われる毎日だった。自らも指導者として初めての甲子園は、余韻に浸る暇もなかったことだろう。試合後のインタビュー、緊張から解き放たれた監督の目からはとめどなく涙が流れていた。
 一方、選手たちは皆、達成感と満足感に包まれていた。
「甲子園に出場できる選手は全国でほんの一握り。そんな中、あの舞台で自分たちのプレーが精一杯できました。勝つことはできませんでしたが、もてる力を十分に出し切ったと思っています。だから試合後はさっぱりした気持ちでいました」と二神。彼にとっては全国のレベルを肌で知ることができたのも、大きかったようだ。
「日大三と対戦して、江原のホームランもそうでしたし、改めて全国のレベルは高いなぁと痛感しました。でも、それで落ち込んだりはしなかったですね。逆に『これから自分も、もっともっと頑張ってレベルアップしなければいけないな』と気合いが入りました」

 甲子園の観客からはスタンディングオベーションで称えられた。鳴り止まない歓声と拍手とともに、高知高の2度目の夏が終わった。そして、それは二神にとってはスタートでもあった。舞台は甲子園から神宮へ。二神の新たな挑戦が始まろうとしていた。

(最終回につづく)

<二神一人(ふたがみ・かずひと)プロフィール>
1987年6月3日、高知県出身。小学4年からソフトボールを始め、中学では軟式野球部に所属。高知高3年の夏は県大会決勝で敗れたものの、明徳義塾の辞退を受け、甲子園に代替出場。初戦で日大三(東京)に敗れた。法政大学では1年秋にリーグ戦デビューを果たし、昨年から先発投手の一角を務める。今年の春季リーグでは5試合に登板し4勝を挙げ、2006年春以来のリーグ優勝に貢献。日本選手権では全4試合に登板し、14年ぶりの日本一の立役者となった。183センチ、82キロ。右投右打。

(斎藤寿子)





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