花巻東の菊池雄星投手は、メジャー志向が強いそうだ。最終的に彼がどのような結論を出すのかは、もちろん今の時点ではわからない。ただ、メジャーリーグに対して、志向というか、憧れをもっていることは確かだろう。
 左腕投手としては、おそらく20年に一人の逸材である。あれだけの体の柔軟性とスピードを持ち合わせた投手など、そう簡単に出現するものではない。日本の球場で野球を見続けている者としては、できればテレビ画面ではなく、目の前でナマの菊池投手を見たいと、正気なところ思う。なにしろアメリカに行く機会などまずない、ドメスティックな人間なものですから。
 それにしても、彼にとって、メジャーリーグって、何なのだろう、と改めて思う。実はこれは、菊池投手に限ったことではない。日本野球にとって、メジャーとは何なのだろう。ひいては、日本にとって、アメリカとは何なのだろう。
 ひと昔前まで、ドラフトで最も注目を集める選手は、決まって巨人志望だった。絶対巨人しか行かない、と言った江川卓のケースが典型だけれども、そこまで露骨に言わないまでも、「在京セ球団志望」とかで、暗に巨人への憧れを表明する選手がほとんどだった。

 要するに、ドラフト戦線における「格」の問題である。ドラフト8位くらいの選手だって、かつては多くの場合、巨人ファンだっただろう。しかし、自分の実力からして大きいことは言えない。その点、ドラフト1位確実くらいの「格」になると、巨人志望が言える。
 すなわち、かつての「巨人」が「メジャーリーグ」にとって変わりつつある、ということではないだろうか。今年のドラフト戦線でいえば、明らかに菊池投手だけが、素質の「格」が違うのである。だから、「巨人」ならぬ「メジャー」なのだ。

 FA制度が定着し、巨人は他球団を圧する資金力で有力選手をかき集めた。人はそれを「巨人」ならぬ「巨大」戦力と揶揄した。そして、資金力にものを言わせたのではなく、かの長嶋茂雄さんがクジで引き当てた生え抜きのスター松井秀喜が、FAでメジャーに移っていった。これを機に、巨人は確かに強いけれども、要するにカネで強さを買うチームという世評が定着した。
 東京の街角から「オレはよ、ジャイアンツファンだからよ」というおじさんが徐々に姿を消し始めたのも、この頃からである。
 ここ数年、東京でも「私は阪神ファンです」という人が急激に増えた。4、5年前からの阪神ファンなのだろう、きっと。

 つまり、日本人は「巨人」を失ってしまったのである。ONとV9によって、戦後の日本社会がつくり上げた、無条件にいいもの、楽しいもの、信頼できるもの、最後には必ず優勝して、自分を実現してくれるもの。そういうものとしての「巨人」が消滅した。別に巨人が勝ったからといって現実の生活が楽になるわけではない。それでも、かりそめの幸福とか安心を得られるという意味で、生の絶対的な拠り所たり得るもの、それが巨人だった(俗に言う「アンチ巨人」とは何か、という議論は、割愛しておこう)。

 もちろん、それは現実の人生の代替物である。巨人が勝ったからといって、この世に永久平和が訪れるわけではないし、家庭に無上の幸福がもたらされるわけではない。しかし、それでも生きるための拠り所にはなってくれる。仮であり、代替物でありながら、いわば“仮の絶対性”をまとっていたのである。
 思えばこの構造は、日本に対するアメリカの関係に類似していないだろうか。戦後、アメリカが一貫して日本の後ろ盾になっていたことは間違いあるまい。本当は仮の、でも絶対的な拠り所……。 

「巨人」という“仮の絶対性”を失ったとき、我々はその代替物を、メジャーリーグに求めたのだ。例えば、巨人の試合を見るよりも「今日もイチローがマルチヒットを記録しました」というニュースに安心する、という具合に。
 ただ、ここには注意すべき論点が横たわっている。
 メジャーリーグはビジネスとして、明らかに日本野球より規模が大きい。一流選手の年俸も高い。

 たとえば、今年開場して話題の広島マツダスタジアムの建設費は90億円とされる。同じく今年オープンしたアメリカの新ヤンキースタジアムは16億ドルである。換算すればざっと1600億円ということになる(たぶん、計算は間違っていないと思うのだが……)。
 仮に菊池くんという高校生がいて、就職活動の一環として両球場を見学したとしたら、そりゃ、おそらくヤンキースタジアムのほうに惹かれるだろう。だって、ケタが違うんだもの。

 では、かつての巨人のように、メジャーリーグが無条件に成功の象徴たりえているかというと、必ずしもそうは言い切れないから話がややこしい。たとえば、松坂大輔、たとえば松井秀喜、あるいは松井稼頭央、福留孝介、上原浩治……。彼らは明らかに、日本時代の輝きを失いつつある。巨大ビジネスが、彼らの才能を消費したという図式である。もちろん、岡島秀樹や斎藤隆のように、日本時代にはなかった魅力を発揮する選手もいるので、いちがいには言えない。ただ、かつての巨人のような、どこも欠けることのない成功という徴表は、今や日本にもアメリカにもないということだ。

 そこには、両者の拠って立つ文化の違いも介在する。大差のついた試合の終盤で盗塁してもかまわないし、それを盗塁の記録にして問題ないと感じるが、ご承知のように、アメリカではそうはなっていない。別に、先発投手が100球超えて投げても、試合展開によってはかまわないと思うが、昨今は、100球思想が主流である。メジャーには、毎試合1200球投げて完投するダルビッシュ有のような投手はいない(日本でもその影響で、かなり少なくなってきた)。
 これは、正邪の問題ではない。端的に文化の違いである。ただ、メジャーに渡った多くの日本人選手がこの違いに才能を費消させられているように見える。

 われわれは、仮の絶対性を拠り所にしてきたと述べた。さらにいえば、一神教世界の神のような絶対性ではなく、「仮」がついている、ということだ。「仮」に憧れるというのは、なかなかおしゃれな生き方であるかもしれない。一方、メジャーリーグは、当然、「仮」などというものは拒否する。自分たちこそ真に絶対であり、新球場に1000億円以上もかけられる確固たる文化を確立している。ここにある齟齬(そご)には、留意したほうがいい。

 たとえば、プレーオフ制度。当然アメリカを参考にしたはずのクライマックスシリーズはどうか。巨人が圧倒的な強さで優勝したにもかかわらず、むしろ世間の興味は、東北楽天がどうなるかという方に向いている。あるいは、阪神、東京ヤクルト、広島の3位争いがどうなるか。だけど、この3球団は、いずれも勝率が5割を切っている。負け越したチームが万が一にも日本一になったら、どうするのだろう。この制度は、当然、是正すべき難点を抱えている、といえるだろう。

 メジャーでも、ワイルドカードという方式が採用されている。2位でも勝率上位チームはプレーオフに進出できる。面白いのは、この制度が、アメリカ野球を蝕んでいる様子はないということだ。けれども、日本では、今やペナントレースは優勝より、3位までを確保することに注目が集まっている。これをあえて、日本野球が蝕まれていると言っておきたい。

 たぶん、日本の制度は、「仮」のプレーオフシステムなのである。アメリカは日本よりは本気のプレーオフシステムといえるのだろう。だが、2位チームにも可能性があるという点で、完全な絶対ではない。アメリカは、少なくとも21世紀において、彼らがそう信じているほど絶対ではないのだ。
 誤解しないでいただきたいが、私はメジャーより日本野球のほうが優れているなどと言っているのではない。どちらが強いかと言えば、それはメジャーだろう。
 しかし、絶対がないということは、各自がそれぞれに強くあれるということでもある。つまり、今こそ、独自の日本野球を深め、開花させるチャンスなのだ。それがメジャーリーグより魅力的である可能性は、あるはずだ。

 巨大戦力の恩恵を蒙りつつではあるが、原辰徳監督は、たとえば坂本勇人や松本哲也を育てて勝った。巨人は、新しい強さを身につけようとしている。
 近年、千葉ロッテ、北海道日本ハム、巨人と、新しい強さが出現したことになる。ここでさらに、「巨人の次」が出てくれば、日本野球にも未来は見えてくる。


上田哲之(うえだてつゆき)プロフィール
1955年、広島に生まれる。5歳のとき、広島市民球場で見た興津立雄のバッティングフォームに感動して以来の野球ファン。石神井ベースボールクラブ会長兼投手。現在は書籍編集者。
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