佐野のアスリートとしての原点は小学校1年生から続けてきた柔道にある。友達の誘いで始めたものの、最初は決して乗り気ではなかった。「始めて3日で後悔しました。でも母親が柔道着を一式買ってきて辞めたいって言えなかったんです」
 何かと理由をつけては、練習を休もうとしていた。19時からの練習開始時刻に先生が練習場に現れないと、「先生が来なかったから」と言って、さっさと帰ったこともある。
 ただ、中学校に入学前に体重が既に50キロ前後だったという恵まれた体格は、ひとたび試合に出ると同学年の女子たちを圧倒した。
「学校でもケンカをして相手を泣かせると、いつも自分のせいでした。“体が大きいんだから考えなさい!”と先生から怒られていました。小学校時代のアダ名、ジャイ子だったんです(笑)」
 小6の県大会では優勝をおさめる。しかし、本人にはあまり試合の記憶も喜んだ感覚もない。勝ったからといって柔道を続けるモチベーションも特には起こらなかった。

「中学に入っても柔道部に入るのがイヤだったんです。他の部活に入ろうとしていました。でも、私は柔道よりも走るほうが嫌いだった。どのスポーツをやっても走らされる。消去法で残ったのが柔道でした」
 いざ柔道部のドアをノックすると、朝練でヘトヘトになるまで走らされた。それでも顧問の先生が怖くて辞めるに辞められなかった。本人によれば、3年間、決してまじめに取り組んだわけではない。一方で試合になると四国大会で優勝するなど、着実に結果を残していた。本人の意思はともかく、ここまで実績があれば県内の強豪高校から入学の誘いがやってくる。その中から佐野が進路として選んだのが、地元の進学校でもある宇和島東だった。

 意識が変わった高校時代

 ここで出会ったひとりの先輩が、その後の佐野の運命を大きく変える。風戸晴子だ。中学時代は全国大会で2位に入り、年上の選手に交じって県柔道女子選手権を制した。高校に入っても1年生ながら県総体で優勝。1学年上の先輩は既に「全国で優勝すること」を目標にしていた。

「自分と晴子先輩は階級が近かったこともあって、よく練習したんですけど大変でした。本当に強かったんです。練習に対する姿勢もまったく違う。すごくストイック。普通に練習している自分が恥ずかしくなりました」

 真剣に柔道と向き合うようになったのは、この頃からだ。6時50分からの朝練に始まり、授業を終えて19時30分ごろまで練習に励んだ。下の学年の時は掃除や洗濯などの雑用もあったため、帰宅は21時をまわった。「授業中は睡眠学習(笑)」「体育祭や文化祭の思い出もほとんどない」というくらい柔の道一本の高校生活を過ごした。
「(甲子園に出場経験のある)野球部は授業中に寝ていても仕方がないという目で見られるのに、私たちは全国大会に出ても、寝ていたら起こされる。そんなことも自分の気持ちを高めてくれました」
 高校3年間、県の女子選手権を3連覇。全国体重別選手権でもベスト8に入った。意識が変わった3年間、佐野は確かな実績を残した。

 激しい競争でもまれた大学時代

 宇和島東を卒業すると、先輩を追いかけるように、大学も風戸が所属する帝京大学に推薦入学を果たす。女王・谷亮子も輩出した強豪校である。そこは想像以上に厳しい世界だった。
「女子部員が各学年10人くらいいて、全体では約40人。高校時代は3年の時でも部員は10人だったのでビックリしました」
 驚いたのは人数の多さだけではない。レベルも高かった。
「高校時代、全国で3位以内に入ったような選手が集まっていて勝てない人だらけ。技も通じないし、力でも負けてしまう。“何なんだ、ここは”と思いました」

 練習も長時間に及んだ。それでも周囲には居残りでさらに練習を重ねている部員もいた。愛媛では向かうところ敵なしだった佐野も、全国ではまだまだ目立たない選手だった。試合に出るためには、まずレベルの高い校内の競争を勝ち抜かなくてはいけない。それは全国の舞台で勝利をあげる以上の難関とも言えた。あまりの実力差に思わず風戸先輩に泣きついた。

「もうムリです。帰りたいです」
「もうちょっと、頑張ろう。ここで佐野が辞めたら、推してくれた先生方にも迷惑がかかる」
 先輩の説得に何とか退部を踏みとどまった。風戸は帝京大入学後、70キロ級で全日本体重別選手権を制覇。福岡国際にも出場するなど、世界を視野に入れる選手へと飛躍を遂げていた。

「晴子先輩が活躍しているのに、後輩がちゃんとしないと恥ずかしい」
 その思いが、再び柔道に打ち込むことを決意させた。1学年後輩の宮本樹理が同様に帝京の門をくぐったことも大いに刺激になった。競争でもまれた4年間は学生選手権3位、講道館杯5位という成果が返ってきた。気づけば柔道部の主将として部員を束ねる立場になっていた。

 戦車、大砲が好きで自衛隊へ

 だが、この時点で佐野は柔道に対して、もう完全燃焼の感があった。
「公務員になって、普通に就職したかった」
 中でも佐野の興味をひいたのが自衛官だった。
「実を言うと、昔から大砲とか戦車が好きでした。ずっと柔道を続けていたおかげで体力に自信はある。だから普通に自衛隊員になりたかったんです」

 しかし、ずっと畳上での生活を過ごしてきた彼女にとって、柔道は就職のための大きな“武器”でもあった。大学時代の恩師から自衛隊体育学校への紹介もあって入隊を果たした佐野は、半年間の訓練の後、柔道班として召集されることになる。
「実弾訓練もあって、とても毎日が充実していました。本音を言うと体育学校には行きたくなかったんですけど……」

 自衛隊体育学校には、特別体育過程と称されるエリートコースがある。各競技のトップクラスの選手が充実した施設の中、世界で活躍するべく日夜、練習を重ねている。古くは重量挙げで五輪連覇を達成した三宅義信選手らを輩出。先のレスリング世界選手権でも男子フリースタイル66キロ級で米満達弘が銅メダルを獲得した。1日中、競技に専念できる半面、結果を残さなければ、一般隊員への“異動”もありうるコースである。佐野も体育学校への召集から半年間は集合教育を受け、その実力、適性を厳しくチェックされた。

 イヤイヤながら始めた柔道も、もう15年以上続けていた。柔道は佐野明日香にとって、切っても切れない関係になっていた。

(第3回につづく)
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佐野明日香(さの・あすか)プロフィール>
1982年5月27日、愛媛県宇和島市出身。小学校1年生から柔道を始め、小6で愛媛県大会優勝。中学時代には四国大会を制す。宇和島東高−帝京大と進み、大学では全日本学生選手権で団体優勝、講道館杯5位などの成績を残す。自衛隊入隊後、ケガもあって引退も考えたが、レスリングに転向して再起。06年に初めて出場した全日本選手権の72キロ級で浜口京子に敗れるも2位に入る。その後は、08年にワールドカップの日本代表に選ばれるなど国際大会も経験。同年の全日本選手権、09年の全日本女子選手権でいずれも初優勝した。ワールドカップにも2年連続で出場し、アジア選手権で2位、オーストリア女子国際大会3位入賞。9月の世界選手権に初出場を果たす。身長168cm、72キロ。





(石田洋之)
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