社会人でも柔道を続ける決意を固めた佐野にアクシデントが起きたのは、自衛隊体育学校に入る前の2005年秋のことだった。練習中に足をかけられた際、左足一本でけんけんをしながら後退した。その瞬間、負荷がかかったヒザに激痛が走った。
「でも痛みが治まったら、普通に歩けたんでテーピングを巻いて練習に参加しました。ところがヒザに力が入らず、ガクッと崩れてしまう。投げ込みもできなくなってしまったんです」
 左足は軸足だった。得意の内またを掛けようにも踏ん張りがきかない。診断の結果は「前十字靱帯断裂」。もちろん手術が必要だった。術後のリハビリを経て、畳に戻ってきた時、季節は夏を迎えようとしていた。復帰した06年8月の実業団選手権で敗退し、佐野の心には再び迷いが生じていた。
「あのまま柔道を大学で辞めておけば良かった」
 この思いは小さくなるどころか、ますます大きくなった。「今年限りで柔道を辞めよう」。決心は今度こそ揺らぎそうになかった。

 レスリングと柔道の違い

 そんな時、佐野は練習の一環でレスリングを体験する。近年の柔道では、海外の選手を中心に、組み合うことなく相手の足をタックルに行くケースが目立っている。日本柔道も対策の一環として、レスリングをトレーニングに取り入れるようになっていた。

 体育学校に入って以降、レスリングは気になるスポーツだった。レスリング班の人間と同部屋だったからだ。
「毎日、レスリング班の子は柔道班の私たちよりも部屋に戻るのが遅くて、クタクタに疲れていました。どんなハードな練習しているんだろうと思ったんです」
 実際に体験してみると、確かに予想以上に練習は大変だった。
「柔道だと立ち技の練習で5分を10〜15本とか平気でやります。寝技の練習も2分から3分を10本くらいやります。でもレスリングは寝技、つまりグラウンドの練習を25秒で3本やったらいっぱいいっぱい。立ち技のスパーリング練習にしても2分3ピリオドを3本やったら結構きつい」

 柔道では組み合えば動きが止まるため、一気にスタミナを消耗することはない。一方、レスリングでは足が止まった瞬間に、相手がタックルをしかけてくる。常に動いていなければ負けてしまう。柔道で培った体力に自信はあったが、最初は少し練習しただけで息が上がった。
「午前中に体育学校の1階でレスリングを体験して午後は2階で柔道の練習でした。柔道の練習が始まる頃には疲れてしまって、半分寝ていました(笑)」

 恥ずかしかったユニホーム姿

 レスリング体験を始めて半月ほどで、佐野は全日本女子オープン大会への参加を勧められる。
「細かいルールまでは全然、教えてもらえなかったんです(笑)。とにかく相手を投げて抑え込めばいいと言われました。柔道の技をかけても何をしてもいいと。あとは円から出るな(相手に1ポイントが入るため)。どうすればポイントになるかといったことはわかりませんでした」

 実際に大会に参加してみてビックリした。エントリーした72キロ級には他に選手がいなかったのだ。試合は主催者側の配慮で高校生の部に交じって行うことになった。高校生といえども、レスリングを専門に取り組んでいる選手ばかりである。ところが、佐野はあっさりと彼女たちを倒してしまう。
「柔道の感覚からしたら、まず自分の階級にひとりもエントリーがないというのが不思議でした。相手の高校生もそこそこ強いと聞いていたのに、柔道の要領で無理やりつかんで、エイッと投げて抑え込んだら勝っていた。“レスリングの世界ってどうなっているんだ?”と思いましたね」

 しかも佐野の本音は試合どころではなかった。シングレット(ユニホーム)を着るのがイヤでたまらなかった。柔道着と違い、体のラインがはっきり出るところが恥ずかしかった。誰かに見られているような気がして、試合ギリギリまで上にTシャツを着ていた。マットに上がれば、一刻も早く試合を終わらせようと頑張った。
「早く服を着たい。その一心でした」
 もちろん試合が終われば、すぐにTシャツを頭からかぶった。

 想定外だった浜口京子との決勝

 大会後、佐野は思わぬ話を聞かされる。エントリーがひとりしかいなかったため、優勝者として天皇杯全日本選手権の出場権を得たというのだ。「“エッ、あれで?”という感じですよ」。言われるままに参加した2006年12月の選手権は、08年の北京五輪の代表選考にもつながる大事な大会だった。同じ階級には第一人者の浜口京子がいる。場所は代々木競技場第2体育館。多数のメディアが取材に訪れ、マット上には無数のカメラが向けられた。注目度の高さは柔道でもあまり経験したことのないものだった

「なのに72キロ級にエントリーしたのは、たった6人だったんです。ビックリしました」
 それでも舞台は全日本である。「勝てるわけがない」。そう思っていた。1回戦をフォール勝ちし、次は準決勝。相手は日本では浜口に次ぐ実力を持つ村島文子(中京女子大)だった。そこで佐野は本当のレスリングを知った。タックルで足を取られ、2度も持ち上げられた。なす術なく、ポイントが相手に加算されていく。負けを覚悟した終了間際、村島がグラウンドの状態で返しにきたところを、上に乗って抑え込んだ。本人も驚きの大逆転フォール勝ち。気づけば決勝へとコマを進めていた。

 対戦するのはもちろん浜口である。向き合った瞬間、これまで味わったことのないような緊張を感じた。それまでテレビで見ていたアスリートと実際に試合をするとは夢にも思わなかった。初心者同然の佐野と百戦錬磨の浜口。結果は火を見るよりも明らかだった。
「自分は柔道しかできない。だから軽くあしらわれました。浜口さんからすれば組み合わなければ絶対に負けない。離れた状態から足下にタックルに倒す。レスリングの基本をやられて負けました。何もできない自分が悔しかったですね」

 第1ピリオドが0−1、第2ピリオドは0−2。ポイント差がわずかだったため、メディアはこぞって「善戦」と評した。“ポスト浜口”との称号もつけられた。しかし、ポイント差以上のレベルの違いを本人は肌で感じていた。フォール負けしなかったのがせめてもの救いだった。この時、佐野のレスリング歴はたった2カ月に過ぎなかった。

(最終回につづく)
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佐野明日香(さの・あすか)プロフィール>
1982年5月27日、愛媛県宇和島市出身。小学校1年生から柔道を始め、小6で愛媛県大会優勝。中学時代には四国大会を制す。宇和島東高−帝京大と進み、大学では全日本学生選手権で団体優勝、講道館杯5位などの成績を残す。自衛隊入隊後、ケガもあって引退も考えたが、レスリングに転向して再起。06年に初めて出場した全日本選手権の72キロ級で浜口京子に敗れるも2位に入る。その後は、08年にワールドカップの日本代表に選ばれるなど国際大会も経験。同年の全日本選手権、09年の全日本女子選手権でいずれも初優勝した。ワールドカップにも2年連続で出場し、アジア選手権で2位、オーストリア女子国際大会3位入賞。9月の世界選手権に初出場を果たす。身長168cm、72キロ。





(石田洋之)
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